小さくても輝く星になれ

設楽純一(4年/DF/前橋高校)

 何を書くか迷っていましたが、なるべく全部書くことにしました。私にとってはいわば備忘録です。つらつらと駄文が続くため、読んでいるであろう方々に伝えたいことは最後に綴ろうと思います。

 引退から3週間が経とうとしている。部屋からはいくら掃除しても湧き出てくる芝やゴムチップが消え、毎日のようにしていたジャージの手洗いはする必要が無くなった。一見素晴らしいことのように思うが、やはり寂しさは感じてしまう。5ヶ月間連れ添った左膝の痛みにすらどこか愛着を感じている。

 最後の試合、つまりアイリーグ最終節は言い表せないくらい楽しかった。最高のパフォーマンスを発揮していた同期の皆に恥じず、今までで一番良いプレーができたと感じている。できればもっと良いコンディションで自分の力で出場を勝ち取りたかったが、そんな中でも出場の機会を与えてくれた後輩たちには感謝の念が絶えない。試合後、駆けつけてくれていた母と撮った写真の自分は楽しみきった笑顔をしていたし、その日はしばらく笑顔が収まらなかった。北大サッカー部のメンバーとして、最高の形で締めくくることができた。

 思えば本当に人に恵まれた人生を送ってこれたなぁと思う。小学生の頃所属していた芝根リトルスターは、まずメンバーがすごかった。後に世代別代表に選抜された同級生をはじめ、県トレや関東トレセンに属する選手が何人もいる環境。10歳でサッカーを始めた自分とはとても比べられないような選手ばかりだった。そんなレベルの高い環境の中サッカーを続けることができた要因の一つは、コーチ陣や保護者の方々のおかげだったと感じている。様々な練習を通して技術を向上させてくれたのはもちろんだが、何よりも私自身の努力する姿勢を誉めてくれていた。サッカーにおいて武器になるものが何一つなかった私にとっては間違いなく心の支えで、今でも私の中に核として息づいている。

 中学校では部活動でサッカーを続けた。高い壁ばかりだった少年団と違い試合に出ることは苦ではなく、入部して1ヶ月も経たないうちにトップチームで出場することができた。勉強においても全く苦労することのなかった思春期の私は、自己中心的な行動ばかりを取るようになってしまった。恐らく先輩には好かれていなかったであろう。3年生時はキャプテンを任せてもらったが、自分の考えが一番正しいのだと思い込み、私の理想をメンバーに押し付けてしまった。一切仲間を尊重しない自分に当然仲間がついて来るわけもなく、まとまりを欠いた私たちの代で県大会に出場することは叶わなかった。部活動引退まで私の行動が変わることはなかったが、高校生以降の私はこの当時の反省を活かすことができた。私が変わることができたのは、傲慢だった自分を見捨てずに育てようとしてくれていた先生方や、今でも一緒にフットサルをする、ずっと叱ってくれていたコーチのおかげだ。一方で、実は変わるきっかけとなったのは同級生だったりする。卒業式の日、ある同級生が私の性格が好ましくないことをその親に話したそう。凄く優しい人だったので私に伝える意図は無かっただろうが、結局親伝いで私に伝わることとなった。だがこれが私の人生一番の転機となったと今では思う。この言葉があったからこそ、自分の態度を改め人のために動ける人になろうと思うようになった。読んでいるわけがないが、今更伝えるのも憚られるのでここに感謝を記しておきたい。また私を見限らなかったなかなか特異な友人がいる。私の良いところに目を向けて、時に注意してくれた彼は今でも貴重な友人だ。

 高校でも部活動でサッカーを続けたが、中学とは一転して再びレベルの高い環境だった。中学時代に県内トップクラスのクラブチームで活躍していたメンバーに囲まれ、私は結局3年間圧倒されたまま終わってしまったというのが今思う感想である。だが唯一得たものは守備力だ。特に一対一に関して、どうすればボールを奪えるのか一番考えたのは高校時代だった。私よりも数段上の選手と毎日のように一対一をできたことは大きな成長につながり、北大サッカー部でも活かせたのではないかと思う。

 1年の浪人生活を経て入学した北大では、当初サッカー部に入る気は無かった。というのも、私はサッカーを高校で一区切りし、大学ではサークルで緩く続けていきたいと考えていたからである。そのような考えだったため、そもそもサッカー部の存在を知らなかった。そんな私が入部したきっかけは、同期の井内だ。彼に声をかけてもらってサッカー部の存在を知り、体験入部でサッカーへの情熱を思い出すことができた。これが無ければ私の大学生活が最高のものとならなかったであろう。
 無事入部した私だったが、5月から年度いっぱいまで休部することとなってしまった。そんな私の心の支えとなってくれていたのも、これまた同期であった。1ヶ月ほどしかプレーしていなかった自分を心配して家まで来てくれ、年目会に顔を出すと早く戻ってこいと言ってくれた。仲良くなるのが異常に早いと当時評されていた年目だったが、その輪に私を入れてくれたことが何よりも嬉しかった。
 2年目はブランクに非常に苦しんだ。実質2年間プレーしてないようなものなので当然である。6月にたまたま出してもらえた東海大戦では東海との差だけでなく部のメンバーとの差も大きく感じた。上手くいかない中愚痴を言ったことも何回もあった。それでも先輩や同期にアドバイスをもらいながら着実に実力をつけることができ、アイリーグでは何度も良いプレーができたように思う。ほとんど一緒にプレーできなかった当時の5年目が、試合後に「成長が見られて良かった」と声をかけてくれた時の嬉しさは今でも覚えている。アイリーグは3位決定戦まで進むことができ、岩教相手に接戦を演じることができた。チームとしての一体感や熱意は最高潮だった。その分0-1で負けてしまった悔しさは大きかった。散々お世話になってきた当時の4年目を勝たせられなかった無念は耐え難く、もうこんな思いはしないと強く誓った。
 3年目は、春先にトップチームの試合に出させてもらう機会があり、自分がある程度通用することは感じることができた。しかし言ってしまえばこのシーズンは何も上手くいかなかった。開幕戦直前の怪我や体調不良のため少しの間プレーできず、復帰直後の試合でミスを重ねてしまい自信を失ったままシーズンを終えてしまった。満足に試合に出ることができずに迎えたオフシーズン。今思うと、ここが転機だったのかもしれない。田淵さんが「トップチームに絡むと思っていた」と言ってくれ、今シーズンもトップチームの最前線で活躍していた優太や琥珀が自分のプレーを誉めてくれた。彼らにしてみれば些細なことかもしれないが、彼らの言葉があったからこそ忘れていた自信を少しずつ取り戻すことができた。
 そして冬が明けた今シーズン。5ヶ月間のオフシーズンで自分の課題と向き合い続けた結果、トップサブとして呼ばれることが非常に多くなった。「トップチームの右サイドバックでスタメン出場する」という目標は、遠くに見えるものではあったが、道のりは見えた気がした。しかし忘れもしない6月15日。左膝の内側側副靱帯断裂という、ラストシーズンの自分にとって大きな痛手となる怪我を負ってしまった。幸いだったのは、1ヶ月から2ヶ月ほどの猶予が見込まれたことだ。早ければ8月中に復帰できると告げられた。ここから復帰に向けてリハビリに通う日々が続いた。意外と悪くない日々だった。チームは総理大臣杯で札大相手に本当にあと一歩の試合を戦い抜くほどの力がついており、ピッチ外から見ていると1人1人が成長していることが手に取るように分かるほどだった。「復帰しても出られないかもしれない」という思いもあったがそれ以上に、着実にステップアップしているこのチームの一員でいることが誇らしかった。
 一方で怪我の回復は進み、8月から少しずつ練習への参加を始めた。しかしこの頃から思うように回復が進まなくなってきた。伸び切らない膝を毎日無理やり伸ばしながら、失った体力や技術を取り戻すために様々なトレーニングを重ねるも、完全復帰への道はずっと靄がかかっているようだった。復帰できるのかという不安を抱えながら日々を過ごしていたが、9月中旬、ついに完全に練習に参加することができた。今の自分にできないプレーの多さを実感したが、同時に引退の影が少しずつ大きくなっていた。私に出来ることは、目の前の課題一つ一つに向き合うことのみだと考え、必死に取り組んだ。
 この時の私のモチベーションは、部員と母に支えられていた。怪我の間、色んな部員に早く復帰してほしいと声をかけてもらっていた。また怪我前の自分のプレーを話題にしてもらうこともあり、そのおかげで自信を失わずに済んだ。その中でも特に同期の影響は強く感じた。同じ言葉でも同期の言葉は一際嬉しかったし、そんな同期たちがチーム内の激しい競争を生み出していることを感じ早く追い付かなければいけないという目標でもあった。一方で、最後の試合に母が来てくれることになっていた。元々の最終節は10月19日だったため、その日には復帰して成長した姿を見せなければいけないとより一層力が入った。
 それでも現実は非情なもので、19日のアイリーグ出場は叶わず。札幌に来てくれた母と一緒に観戦した試合は劇的な勝利に心躍らされたが、同時に心苦しさも感じていた。胸に影を感じながら練習に励んでいた最後の1週間。後輩たちの気遣いで、最終節に出場できることに。加えて母がもう一度群馬から駆けつけてくれることも決まった。実力で掴みたかった舞台だが、いざ立つことが決まってみるとやはり嬉しいもので。しっかり準備をして臨んだ最終節。冒頭に記した通り、すごく楽しかった。涙が流れる隙もなかった。4年間の集大成、そしてサッカー人生のピリオドとして満足のできる日だった。

ここから本題です。

後輩のみんなへ。
はじめに、卒部式ありがとう。笑いすぎて疲れた日は久々でした。これだけ色々な企画ができることはこれからの北大の強みになります。ぜひ伝統としてこの風潮を紡いでいってほしいと思います。
それから、オフシーズンは個人的にはみんな頑張ってほしいと考えています(白石ごめん)。特に2年目以上は、冬頑張ってきた人が見違えるほど成長した姿を感じていると思います。俺はフィジカル以外の強み無しにアイリーグに出られました。みんな俺よりも技術があるので、まずは今年の冬をしっかり乗り切ってほしいです。
また、いっぱい誉めあってください。特に試合に出ている面々は、言葉の重みが違います。言葉一つで支えられてきた人間が俺です。どうか誰かの支えになってあげてほしいです。
卒部式でも言ったけど、みんな大好きでみんな応援しています。素晴らしい日々をありがとう。

岡田さんへ。
最終節、俺が交代で出る直前に「頭は冷静に」と言ってくれたと思います。俺は大一番の試合で毎回少し浮ついた入りになってしまっていましたが、この日だけはしっかりと集中してゲームに入ることができました。間違いなく岡田さんのおかげです。ありがとうございました。

高橋さんへ。
リハビリや練習・試合でのサポート、大変お世話になりました。靭帯断裂という大きな怪我をした中、俺は高橋さんが示してくれた道を歩くだけで復帰まで辿り着けました。サッカー部を笑顔で引退できた今シーズン、高橋さん無しではなかなか考えられません。ありがとうございました。

家族へ。
最終節を見てくれてありがとう。この前家で見た時、特に思いの外お父さんが褒めてくれたことが嬉しかったです。自分の努力する姿勢はお父さんが怪我さえも努力の証だと褒め続けたおかげだし、今の自分が人のために動けるのは身を削って俺たちを支えてくれていたお母さんというモデルがあるからこそです。今までずっと俺を導いてくれてありがとう。また妹2人は今は友達のように感じているけど、俺が高校生の頃までずっと迷惑をかけていたのは今でも申し訳なく思っています。これからどんどん大人になっていくでしょうが、捌け口とでも思ってどんどん迷惑をかけてください。俺の人生のすべてのシーンの影にみんなの姿があると、ブログを綴りながら感じました。今まで本当にありがとう。これからも健やかに過ごしましょう。

同期へ。
俺の大学生活は、みんな無しには語れません。4年間の心の支えはみんなで、目標となっていたのはみんなで、一番笑顔でいられる仲間がみんなでした。ミーティングを繰り返した2年前、「悪いところを指摘できなかった」という言葉は当時の自分にも深く突き刺さり、人間として成長するきっかけにもなりました。日頃みんなが頑張っていたからこそ早く追い付かなければいけないと俺も頑張れたし、苦しんでいた時に手を差し伸べてくれたからこそ笑って4年間を過ごせました。こんな偉大な仲間を持てて幸せです。怪我した日に開催された年目会に参加できなかったことが唯一の心残りだと感じていますまたみんなでバカ騒ぎしましょう。気が向いた時でいいので駄文(大学のところだけ)も読んでくれると嬉しいです。本当に、4年間ありがとう!

最後に
「小さくても輝く星になれ」
これは私が所属していた少年団、芝根リトルスターのスローガンです。情熱を燃やし続けたサッカー人生13年間。私は間違いなく最終節、今までの人生で一番強く輝くことができました。この4年間は人生のピークになるかもしれないと感じるほどです。このような素晴らしいチームでサッカーができたことが幸せでした。またこの光が誰かを照らすことができればこれ以上の喜びはありません。

今まで出会ったすべての人々、そして北大サッカー部に感謝を。

#4 設楽純一

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