小林翔悟(4年/GK/魚津高校)
自分は不器用な人間だと、よく思う。
これまでの人生において何か物事を始めるとき、最初からうまくいくことなんてなかった。
才能のある人々を見ては、なんで自分は「じゃない方」の人間なのだろうと劣等感に苛まれた。その才能のある人々の人生はイージーに見えて、いつも羨ましいと感じていた。
それでいて、自分は格好つけるタイプの人間であった。内心気が引けていても、平然を装った。そして偶々うまくいけば、狙い通りであると、再現性のある事象であると声高に発信した。
この不器用さと見栄を張りたがる二律背反とも取れる両性格はしばしば自分の人生をハードなものへと変化させてきた。
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ブログを開いてくださりありがとうございます。平素よりお世話になっております。北海道大学体育会サッカー部4年の小林翔悟と申します。シーズン開幕前のブログということで私の出番がやってきました。私はブログを過去の秘密の感情を吐露し自省する場、そして途方に暮れた時に回帰する場にしたいと考えています。少々長くなりますがお付き合い頂けると幸いです。では、どうぞ。
生まれてから高校を卒業するまで富山県北東部の片田舎で過ごした。
今振り返るとあの場所での暮らしは結構うまくいっていたと思う。
小学校で始めたサッカーはいつだって自分のポジションが確立されていた。
勉強もある程度優秀で、成績表は基本オール5、順位も一桁以外ほぼ見たことがなかった。
学校には親友と呼べる信頼できる仲間たちがいて、愛する恋人だっていた。
この世は多少努力すれば全部思い通りに行くし、自分は特別な存在であると認定した。
当時推していた、乃木坂46・なぁちゃんこと西野七瀬とも誕生日が一緒で運命を感じ、彼女との将来的なプランを構想し始めてすらいた。
当時の中高生で藤原道長の望月の歌に共感できたものは私以外いたのだろうか。いや、ない。反語でちゃった。かなり盛った。
他の世界から一定離れた閉塞的な環境で出会った人々の多くはステレオタイプ化された生き方を好んだ。
偏差値の高い高校に行き、良い大学に行き、地元の優良企業に就職し、マイホームを建てて妻と子供と共に幸せに暮らす。それが人生の正解、男のあるべき姿であった。
他人軸で生きる私はもちろんその敷かれたレールを着実に進んだ。まるで貨物列車に乗せられた紙パルプのように。そのレールは北へと向かい、気づけば札幌に到着した。
p.s ちなみに 「富山はいいとこ」です。
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「へえー、大学で富山から北海道に行ったんだ。これはどうしてなの?」
就職活動で飽きるほど訊かれたこの質問。
「__北大という周囲のレベルが高い環境で自分自身成長できると考えたからです。」
みたいなことを言っていた。
高校あたりで薄々気づいていた。自分が生きている環境の狭さと甘さに。
新たな自分への挑戦。不安と期待。
現実は思っていたよりも厳しかった。自分みたいな存在は、量産型でいくらでもいた。
サッカーでも、就職活動でも、その他さまざまな場面で私は特別な存在ではないと悟った。
サッカーでの私のポジションはGK。このポジションはかなり特異だ。
彼らだけ着用する服が違う。彼らだけ手が使える、などなど。そして何より、GKは1人しか試合に出ることが許されない。
この特異なポジションでありながらブログ冒頭の特徴を持つ私が苦悩するのは火を見るよりも明らかだった。
一度のミスであっても仲間からの信頼を失えば次の日からポジションはない。この呪いともいえる状況の中、私は常に自分とライバルのGKたちを比較した。
日々頭の中で比較シミュレーションを行い、今日は私の方がよかっただの、今日は駄目だっただのと一喜一憂した。ライバル達に差を見せつけられては自分は価値のない人間だと断定した。明確に「自分と人を比べた」。
そんな苦しくも怒涛の日々でありながら、2年次にはなぜかレギュラーを獲得した。
たまたまチームの勝利に貢献できた日もあった。そんな時はさも実力通り風に振る舞った。実力以上に周囲が評価してくれる毎日は「成長」という選択肢に蓋をし、見事に自分の能力を錯覚させた。そしてGKというポジションの特異性を月曜日の燃えるゴミの日に捨て、忘却した。2023年はそんな感じだった。
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2024年。スタートから様子がおかしかった。元日、インフルエンザに罹り実家で1人寝込むことになった。その日はやけに風が強いなと感じた。なんか家が揺れている気がした。洒落にならないくらいに揺れていると実感した。人生で初めて死を覚悟した出来事だった。
札幌に戻ってからも流れは悪いままだった。詳細は省くが3か月ボールを蹴ることが許されなかった。この期間に私の大切な親友がスパイクを脱ぐ決断をした。心にぽっかり穴が開いたような感覚があった。どこにぶつけていいのかもわからない苛立ちや不信感が日々を覆った。
4月、部に戻るが、私の調子はすこぶる悪かった。調子の悪いGKあるあるかもしれないが、なんか絶対失点しちゃうみたいな時期になっていた。当然の如くレギュラーから外れ、ベンチからも外された。部を離れた親友に見せる顔がなかった。
「お前がおらんくなっても勝ったるし。」
そんな調子のよいことを言っていた男の姿はピッチ上にはなく、ボコボコの北大グランドでのBチーム練習にあった。
そんな男を差し置いて、生まれ変わった新生北大は快進撃を続けた。昨季出ていた自分の存在など皆忘れ、目の前の一戦一戦を戦っていった。熱く戦うチームの中に自分が入り込む隙間などなかった。チームが勝利しても面白くなかった。次の試合は自分が出場しないことが決まるから。自分のプレーではなく、他のGKの調子や評価ばかりに目を向けた。うまくいっていない原因は自分ではなく周囲であると決めつけた。
夏まで何も良いことが無くて、夏休みに入ると就職活動が本格化した。私は就職活動が得意ではなかった。インターンシップという茶番のために部活に出られない日々が続いた。自分の心はさらに暗転していった。
割り切れない日々が続いた。ある日、高校時代の親友の母親に占いみたいなものをしてもらう機会があった。ちなみに私は占いを信じるようなタイプの人間ではない。きっかけは私が何もうまくいかない当時の状況を説明したからだったと思う。
「俺、高校とかついこないだまでは基本全部思い通りに行ってたんに、今年なんもうまくいかないんですよ。厄年ですかね。ハハハ。」
「小林らしくないぜ。あたしがしらべてあげっちゃ」
結果、私は天中殺だった。12年周期とかで2年間来るらしい。それが私の場合2024年と2025年だった。荒波を進む船のように不安定な時期らしい。恋人も2026年2月まで作るなといわれた。こればっかしはほなしね。そんなことを言われなくてもどうせできないだろうとin my heartで誰かが呟いた。私の心のオアシスは一旦櫻ちゃんに任せておくことにした。
「でもあんたこの2年間は勉強の期間よ。嫌なことあっても今の環境から逃げちゃダメ。」
少しずつ、そして確実に私はスピっていった。
そして、彼女は印象的なことを語った。
「一瞬で幸せになる方法知っとる?」
「そんなものあるんですか?」
「感謝すること。今の状況全部に感謝しなさい。」
グサリと刺さる。私は知らず知らずのうちにこの感情を忘れていた。
仲間達と同じ目標に向かい、熱く戦える貴重な日々。高校の時憧れていたそういう日々は当たり前じゃないことをいつの間にか忘れていた。そしてサッカーをする以上当たり前に起こるマイナスな事象はすべて周囲のせいにしていた。
「逆に一瞬で不幸になる方法知っとる?」
「教えてほしいです。」
「人と比べること。」
私の心はまるで弁慶の立ち往生。
人と比べ、他人軸の上で自分の評価ばかり気にしていた人生。これからは自分を生きよう。そう心に誓った。
それからの生活は結構充実していた。チャンピオンリーグでは岩教にクリーンシートできたし、純粋にサッカーが好きな自分に久しぶりに出会うことができた。もちろん最終節北翔戦では全く良いパフォーマンスができなかったし、サッカーでもそれ以外でもうまくいかないことはいくらでもあった。ただ、少しづつ考え方を変えることができた。それまでは一方からしか物事を捉えていなかった。でもうまくいかないことがあっても、全部自分のためになる。自分に起こることはすべて正しい。毎日後輩GKにしごかれながら、どやされながら新しい技術を必死に習得して五大戦で優勝できた。サッカー人生終盤になって久しぶりに上手くなっている実感がわいた。確かな自信がつき始めた。苦手だった就職活動も色んな方々に支えてもらってやり切ることができた。結局苦しかったこの1年ちょっとの間で人格的にも少しずつ成長できた気がする。
そんなこんなで気づけば5月。ついにサッカー人生のラストシーズンが始まる。最高の瞬間もあると思うし、昨季途中までみたいに全くうまくいかない時期もあると思う。そんな時はあの言葉を思い出す。
今の状況全てに感謝して、他の誰でもなく自分のために戦う。きつくも楽しい残り数ヶ月のサッカー人生。最後は笑っていたい。まだまだ弱い自分と向き合って、打ち勝ってこの熱い仲間達と最高の景色を見に行く。
まずは5/17の開幕戦、 “戦うよ”。
#1 小林翔悟