高橋莉久(4年/FW/苫小牧東高校)
「かわいいだけじゃだめですか」
流行に鈍感な人間でも、どこかで一度は耳にしているだろうこのフレーズ。それはまるで、時代への問いかけであるようで、実は問いではない。むしろ、「かわいいだけで、なぜいけないのか?」と、すでに答えが決まっている反語のように響く。正しくは、答える側が試されているのかもしれない。
「それだけではだめ」と言ってしまえば、自分の中の何かが損なわれる。かといって、「それだけでいい」と認めるには、どこか抵抗がある。そうやって、多くの人は心の中で逡巡する。
時代は何をするにも批評と同居している。「かわいいだけ」「薄っぺらい」「中身がない」──そんな言葉が、SNSのどこかで飛び交う。
でも、それでもなお、このフレーズが広まり、消費され、そして誰かの心に残るという事実がある。なぜか。
たぶんそれは、実力がすべてを凌駕する瞬間があるからだ。人は「出る杭を打つ」けれど、「出すぎた杭」はもはや打たれない。
あるいは、それがどれだけ不条理でも、圧倒的な何かを前にすれば、人は黙り込むしかないのかもしれない。あの「かわいいだけじゃだめですか」は、令和という時代に突きつけられた、無邪気な刃だ。笑っているようで、容赦がない。それでいて、どこか救いがある。
一方で、ある人が見せる“かわいさ”の裏には、どれほどの努力が積み重ねられているか。私たちは知っているようで、知らない。
体型を保つための節制、表情筋一つに至るまで意識されたトレーニング、メイクやファッションに費やされる時間、カメラの前で一瞬でも輝くための無数の練習──そのすべてを背負って、それでも「かわいく」あろうとする、その気概。
「かわいい」は、ただ生まれ持ったものだけじゃない。
それは、自己表現であり、闘いであり、積み重ねの結晶でもあるのだ。
けれど、その努力は、あまりに自然で、あまりに静かだから、見過ごされてしまう。
だからこそ、世の中の多くの人は、安易にラベルを貼る。「かわいいだけ」と。
でも、本当の「かわいさ」は、“だけ”なんかじゃない。
それを知っている人たちだけが、「いいよー!」と心から言える。
結局のところ、かわいいは、正義なのかもしれない。
さて、自分のことを考えよう。
最近サッカーをしていて、よく思う。「自分の武器って、なんだろう」。試合後の帰り道や、筋トレのレスト中に、ふとそんな問いが湧いてくる。
「これだ」と言い切れるものが、今の自分にはまだない。
かつては、足の速さに自信があった。スペースを見つけ、一歩目で抜け出す。それが自分らしさだった。
でも二年生のときの怪我を境に、うまく走れなくなった。身体はある程度回復しても、心の奥に小さな躊躇が残っている。
「また、あのときのようになったらどうしよう」。そんな不安が、知らず知らずのうちに脚を縛っているのかもしれない。
過去の自分にすがっても仕方ないし、某アイドルグループも「さあ、アップデートしよ?」と言っていたし。
一時期は、「バランスの良さ」が自分の強みだと思っていた。
小さい頃からキーパー含めすべてのポジションを経験してきた、なんていう小話もある。
バランスがいいことは決して悪いことじゃないし、どんなことも平均以上にできることに越したことはない。
でも、高いレベルになればなるほど、完璧でないそれは「器用貧乏」にもなりうると知った。
突出した能力──それこそが、選ばれるための条件だと、誰もが知っている。綺麗に整った能力の図形よりも、たとえ不格好でも鋭く尖ったチャートの方が、相手を突き刺すことがある。
今、もし武器になりそうなものを挙げるとすれば、右サイドからのクロスだ。
最近の練習試合──岩教戦でのクロスが山縣の得点につながっていれば、胸を張って「僕の武器はクロスです」と語れていただろう。
だけど、そのクロスはわずかにズレて、アシストにはならなかった。たった一つの失敗。でもその一瞬が、自信をわずかに揺らした。この失敗は、全然小さくなかった。
でも、だからこそ、そこに賭けたいとも思った。たった一つのチャンスのために、何日も、何週間も、積み重ねる。その姿勢が、自分を次の段階へと連れていくのだと信じている。
今年の北大には、説田周という選手がいる。彼の武器は、空中戦。
もし自分のクロスが洗練されていけば、彼とのホットラインが繋がるかもしれない。そんな想像をしては、ひとりで勝手にうれしくなる。
今はまだ、「これが自分の武器です」と胸を張って言えるものはない。
でも、シーズンの終わりには、仲間たちが笑いながら「いいよー!」と言ってくれるような、そんな存在になりたいと思っている。
「かわいいだけじゃだめですか?」
その言葉に、ちょっとだけ勇気をもらいながら。
#75 高橋莉久