仲間たちへ

野中大幹(3年/MF/新宿高校)

突然自分の人生が今日で終わりだと気付いてしまった日のことを想像してみてください。
今までに読んだどんな物語よりも色々なことが起こり、
そして刹那のように短かった人生をあなたは振り返る。
その時には何を悔やみ、何を誇りに思うのでしょうか。

こんにちは。野中大幹です。
休部しているという状況にもかかわらず
ブログを書く機会をいただいてありがとうございます。
最近は前から読んでみたいと思っていた本を読んでみたり
後輩と夜遅くまで受験生みたいに勉強してみたり
はじめの一歩を読んで強くなりたいと思いボクシングに憧れてみたり。
そんな日々を送っています。
サッカーから離れているのでこのブログでは20年生きて、
自分が歩んできた人生と生き方に関する自分の考えを
そして今胸にある熱い思いをまとめてみようと思います。
大学生活や将来に“わくわく”を感じない同世代に、
人間関係に悩む仲間たちに、
そして何より
今あるこの熱を失いモチベーションを持ち求める
未来の自分に読んでもらいたいと思い書いています。
その中で休部している理由について触れます。
長くなると思いますがぜひ読んでみてください。

「おまえ、らくそうだな」
去年のある日、練習の帰り道だったか試合会場でだったか
当時3年でこのブログの編集者であるこばしょーに言われた。
「おまえ、らくそうだな」
頭の中に「おまえ、うまそうだな」と、
あほっぽいタイトルを与えられた懐かしい恐竜の顔が浮かび消えていく。
「なんだそれ」と思った。
当時就活が始まっていて自分の将来について考えていたこばしょーが、
そこらへんの何も考えてなさそうな後輩に嫌味をぶつけてきた。
かといったらそうではなくたぶんただの、だる絡みだったと思う。
ただ思い当たる節はあった。
確かにあの時の自分は楽だった。
ガキンチョだった中学を卒業し、
高校で仲間と人生の楽しさを知った自分は、
大学に入って世界が広がり、人生は楽しいと心から思っていた。
ただそこには大事な欠陥があった。
将来について超楽観的に、
ずっと今のまま楽しく平和に生きていけるだろうと考えていた。
だから深く考えることは避け、ただ遊び、ただサッカーを楽しんでいた。
だから楽だった。
今私は夢を見つけそれを追い、将来について考えている。
以前のように楽ではない、簡単でもない、ただ刺激的な毎日を過ごしている。

「思春期」
私の中学三年間は笑ってしまうほどに思春期真っ盛りだった。
勘の鋭い親に見つからないように布団にスマホを忍ばせてゲームをする。
次の日親に叩き起こされて、
ボコボコのニキビ面で学校に参上すると、
授業中は爆睡、
女の子と話すのが恥ずかしくて壁を作り、
仲の良かった男子たちと廊下を走りまくった。
サッカーにおいても私は思春期だった。
小学校の弱小チームで天狗になっていた私は、
中学校のセレクションで落ちまくり、自信を失っていた。
ただ自分が下手という事実を認めたくなかった私は、
サッカーを嫌いになることでサッカーから逃げた。
ポジションは責任が少なく、走っていれば認めてもらえるサイドバックに逃げた。
(サイドバックはしっかりしたサッカーでは超重要であり大好きなサイドバックはたくさんいる。)
上手い人が怖かったし、へたくそな自分が恥ずかしかった。
もちろん楽しいと思う時もあった。
Bの試合で少し活躍すれば嬉しかった。
ただ努力という言葉を知らない私が、
頑張ってAの試合に出たいと本気で思う時は ついにこなかった。

「青春」
高校受験を通し、私はスマホの洗脳から抜け出し、
努力と成長するということを初めて経験した。
コロナが明けた6月、
ついに憧れの大都会、新宿に足を踏み入れる。
建物がでかい。どんな人たちがいるんだろう。
抑えきれないワクワクを抱え、新宿高校の案外地味な丸いアーチをくぐった。
サッカーを続ける気はなかった。なんとなくバレーをやりたいと思っていた。
ただ運命は私をサッカーの世界に留まらせた。
そして何にも代えがたい仲間たちがそこにはいた。
そしてその仲間が私の世界と人生を変えてくれた。
一人の友が私に人生を楽しむことを教えてくれた。
やりたいことをやること。
何でも面白く変えてしまうこと。
幸せとは何か。
世界は広いこと。
だからやりたいことは全部やった。
全力で準備し、全力でふざけ、全力で楽しんだ。
もう一人の友は私に熱く生きることを教えてくれた。
私が知っている誰よりもサッカーに熱く、自分に厳しかった。
私にサッカーの楽しさを思い出させ、火をつけてくれた。
朝、誰よりも早くグランドに行き、
早すぎと怒られながらも部室の鍵をもらい、
ボールとスパイクを取り出して、
まだ活気がなく静けさの漂う新宿の街に、
ボールを蹴る音を響かせた。
案外澄んだ都会の朝の空気は心地よかった。
朝練をし、昼練に連れ出し、放課後もサッカーをした。
不完全燃焼の練習の後、2人で、走りに行ったりもした。
熱くなることは何よりも楽しかった。
部活を引退すると、受験が始まった。
早かった。この前高校受験したばかりじゃないかと思った。
でも仲間たちがやっていたから、やらざるを得なかった。
今振り返ってみれば、
仲間の姿を見ながら勉強する。
昼ごはんを食べながら、進展や計画、悩みを話し合う。
重い腰を上げ自習室へと引き返し、寝ている仲間を見て元気をもらう。
仲間がやめるまで勉強をやめるわけにはいかず、結局最終時間にみんなで帰る。
この連続だったあの日々は充実していた。
これが私の青春だった。
ただ一つ忘れられないことがある。
私は熱さを教えてくれた友と、一緒に練習していた。
一緒に筋トレをした。一緒に飯を食った。友でありライバルであった。
三年生になってからのことだった。
いつものように1対1をしながら、思っていることを話していた。
「俺、お前とやる時、どっか手抜いちゃってるんだよね。」
友が言ったこの言葉が、
私を煽るような冗談ではなく、本当なんだというのは一瞬でわかってしまった。
どこかで感じていた部分もあったけど、同じ立場で努力していると思っていた。
傷つきはしなかった。
「なにを。」と思ってもっと熱くなることはできなかった。
人生を楽しむ一環として、熱くなっている自分と、
サッカーだけに集中すると友とでは、
しょうがないよなと言い聴かせるのが、精一杯だった。

「贅沢」
永遠に続く夢のような感覚を私達に与えてきた高校生活も、
時の流れに逆らうことはなく、
私は仲間たちに別れを告げ、北海道に来た。
広い。
日本で一番人の多い街で、人に迷惑をかけないように三年間を過ごしてきた私にとって、
その広さは私を自由の冒険へと駆り立てるのに充分だった。
お金と時間、親、すべての制約が蒸発し、
文字どおり自由の身となった私は尽きるまで楽しみ尽くした。
1週間の間に、知床に行き、函館に行き、また知床に行った。
弾丸で稚内に行き、車の中で夜を過ごした。
土日の夜は友達の家に泊まり朝まで語り尽くした。
バイトし、お金を貯め旅行をした。
朝練会場に夜のうちに行き、野宿してみた。
次の日もといに怒られた。
真夜中の支笏湖でバイクみたいなヒグマの鳴き声を聞き、猛ダッシュで逃げた。
真夜中の支笏湖にゴムボートで勝手に船出してみた。
普段はサッカーをし、忙しかったが充実していた。
でもいつの日か、楽しいことしかやらなくなっていた。
そのことに薄々気付き始めていた。
もう一人で自主練することはなくなっていた。
夜を遊んですごした朝、
知らぬまに雪が積もり
まだ誰の足跡もつけられていないその道を、
一人歩くその瞬間は、ひどく虚しかった。

「目覚め」
2月に一ヶ月間フィリピンに行った。
留学は前からしてみたかった。
自分の価値観を日本だけで形成するのは違うと思っていたし、
留学に行った友達や家族が教えてくれる非日常を体験してみたかった。
正直に言うと私はフィリピンに遊びに行った。
留学という名前を後ろ盾に、
五大戦という北大(というよりあき)主催のビッグイベントに向け
団結するサッカー部の中で一人、
南国のビーチでくつろぐ姿を想像していた。
フィリピンに着くと早速、
フィリピンの地図とカレンダーを印刷してもらい、大旅行計画を立て始めた。
初めて自分の部屋に案内され、
二段ベッドの自分の階の下に寝ている、
坊主のアラビア人を見つけたときはさすがにびっくりした。
冒険のお話に関してはこの辺にしておこう。
結論から言うと、この一ヶ月は、
当初思い描いていた大バカンスとは大きく異なるものになる。
語学学校には多くの国の生徒がいる。
B’cebuには日本、中国、韓国、サウジ、トルコ、タイから来た人たちがいて、
みんな学校の中で暮らしている。
だから朝から夜まで一日中いろんな国のいろんな人と話すことができる。
ルームメイトのサウジアラビア人、ミモは
tomorrowもYesterdayもわからなかった。
だから気持ちと、Google翻訳と、ほんのわずかな英語で会話した。
最高の友達になるにはそれで充分だった。
もう一人のルームメイト、ボブは
部屋でずっとパンツ一丁で中国語を叫びながらゲームをしていた。
ミモはボブが大嫌いで、部屋から追い出そうとしていた。
中国人の彼はまだ15歳だった。自分の中学時代を思い出した。
きっと母に急にフィリピンに投げ出されたのだ。
どの先生もボブを見たことはまだなかった。
私はボブが好きだった。
話すととても謙虚で、かわいいからだ。
卒業の日、トイレットペーパーをプレゼントした。
ボブはよく、私のトイレットペーパーを勝手に使っていた。
韓国で同世代の友、デイビッドとは常に行動を共にするようになった。
韓国から来たおばさんは、
母国に自分の語学学校を持っているオーナーで、ビジネスで世界中を回っていた。
世界の話や英語の学び方を教えてもらった。
トルコから来た美人な女性は、なんと34歳でまだ結婚していなかった。
いいトルコ人がいないらしい。
日本語で“株”と言っていたおじさんに話しかけてみると、中国人だった。
エジプト人のスタッフである頼もしいイケメンマネージャーは、まだ18歳だった。
タイからきた優しい物静かな友達のインスタを見てみると、
母国にとても可愛い彼女がいた。
旅行の大計画はやめだ。
世界中からやってきた人たちと、友達になり、話すことほど楽しいことはなかった。
毎日、7時に起き、朝の授業に行くところから一日は始まる。
午前午後のグループとマンツーマンクラスを、昼食と昼寝を挟みながら終えると、
みんなで夕食を食べる。
食べ終わったら、バスケをしたり、話を続けたり、買い物に行ったり。
でも頃合いが来ると必ずジムに行った。
ワークアウトを終え、シャワーを浴びると図書館で勉強した。
いつしかそれが、私とデイビッドの日課になっていた。
ミモにおやすみを告げてベッドに入り目を閉じる。
終わってしまった一日への満足感が、私を幸せにした。
何より、新しい世界を知り、新しい知識を得て成長しているという確かな感覚は、
今までにない喜びを与えてくれた。
過ぎ去って欲しくないと思うのと同時に、明日が待ち遠しかった。
フィリピンで出会った人々を私が大好きだったのは、
皆希望にあふれていたからだ。
皆自分を変えるためここに来ていた。
独学で英語を学び、流暢に自信を持って話す人は年上のハーフかと思っていたら年下の日本人だった。
わざわざ田舎の高知県から海外大学進学のため、飛行機を乗り継いできた高校生がいた。
内気な性格を奮い立たせ、毎日オプションクラスに参加している人がいた。
サルモネラ菌にかかり留学の貴重な時間をベッドの上で大量の薬を飲んで過ごしながらも、嫌な顔ひとつしないで勉強している人がいた。
みんなかっこよかった。
そして夢をもっていた。
デイビットは兵役で特殊部隊に入ることを夢見ていた。
18歳のアラブ人マネージャーはパイロットになることを、
ある人は看護師を
ある人は科学者を
ある人は花の研究をするロマンチストを
ミモは4人のワイフを持つことを夢見ていた。
夢なんてもったことはなかった。
小学校の時にレアルマドリードでプレーするといっていたのは覚えているが、
気づきもしないうちに消えてしまっていた。
またフィリピンではよく環境問題の話をした。
私の学部が飲み水を作る学部だというと、
「これからの世界に必要だ。」と言ってくれた。
目が覚めた気がした。
私は地球温暖化を止めたかった。
世界の環境問題を解決したかった。
だから環境と名前の付く学部を選んだ。
でも環境を守りたいと、声高に言うのは怖かった。
ゴミをポイ捨てする友達に何かを言うのは、良い子みたいで嫌だった。
友だちひとりに意見も言えない自分が環境を守るなんて無理だとあきらめた。
お金にならないからという言い訳で自分を納得させ、楽な生き方を想像していた。。
でも世界は違った、少なくともフィリピンは違った。
街の至る所にプラスチックごみが落ちているような国でも、
環境を守らなきゃいけないという言葉に恥じらいはなかった。
いったい何を諦めていたんだ。
私が生きていた世界は狭かった。
政治の話もした。
サウジアラビア、韓国、中国のそれぞれの国の政治の話。
サウジは王制で特殊だったが、近年良き王様の下で生活が変わっているらしい。
中東戦争についても教えてもらったがわけがわからなかった、
イスラエル?パレスチナ?シーア派?イラン?ネイマール?アメリカ?
帰ってから勉強した。
韓国では政治があれまくっていた。
中国の汚染された空気は、メディアから得る誤ったイメージだと主張された。
ここ十年は環境改善に力を入れ街は綺麗なんだと。
そして彼らが使う最先端のテクノロジーを教えてくれた。
日本は?何も知らなかった。北海道に来て二年、ニュースは一度も見ていなかった。
中国も韓国も原発から出る汚染水を海に流すことについて文句を言っていた。
創価学会についても知っていて驚いた。
「どうして日本人は頭がいいのに、政治家は頭が悪い人しかいないの?」と言われた。
中国では、処理水を飲んで“大丈夫”ですと主張する日本の政治家が大人気の面白ビデオらしい。
みんな自国のメディアだけを通した情報で話しているから、勝手な解釈ではあると思う。
ただ、悔しかった。
皆さん、がつんと言ってやれなくてすみません。
B’cebuでは毎週金曜日に卒業式がある。
毎週新しい人が来て、大勢が卒業して行く。
希望する生徒はそこでスピーチをしていた。私はそれをやってみたかった。
1か月しか滞在していないし恥ずかしいという思いは少しあった。
でもここで経験した特別な思いを、口に出してみたかった、
それを仲間に伝えてみたかった。
そして何より想像してしまった。
自分が話している瞬間を。
そしてわくわくした。この感覚を私は知っていた。
何かやりたいことを成し遂げた時、それらはいつも妄想から始まっていた。
妄想を膨らませ不思議な緊張感と高揚感が湧いてくる。
この高まりを無視することはできなかった。
ただスピーチなんてしたことはなかったから、
とりあえず参考になりそうなものを探すことにした。
梅雨が終わり、長く過酷な夏が訪れる。
そのわずかな隙間にある束の間の平和。
あたたかな日差しが机に反射し、
涼しげな風が窓から流れ込み静かな足音を残して過ぎ去っていく。
そんな日の図書館に一人、私はあるスピーチを聞いていた。
彼の名はバラク・オバマ。
第44代アメリカ大統領で初のアフリカ系大統領だ。
有名大学の卒業生を前に、おもむろに話し始める。
“I am so proud of each and everyone here…
約10分間のスピーチ、話はこう締めくくられる。
“So, don’t ever shy away from the endeavor.
I can promise that you will be better for that continued effort.
Congratulations.
God bless you.”
知的で優しく、そして何よりも力強かった。
一か月弱英語を勉強しただけの私には、
何を言っているのか、どういう意味なのか
正直雰囲気しかわからなかった。
でもその言葉は言語の壁を越える程に熱かった。
人生に熱くなっていた日々。
それを失いかけていた過去。
今思いもよらなかった経験によって、
それが変わろうとしている実感と、そのめぐり合わせへの感謝。
成長できることの喜び。そして未来への希望。
私は涙を止めることができなかった。
もうどんな努力からも逃げないと誓った。
卒業の日スピーチをした。
長い間緊張するのは嫌なので一番最初にしてもらった。
もちろん全部暗記してかっこよく語りたかったが、
時間がなかったので、前日に書いた原稿を思いっきり読み上げた。
サウジアラビアの盛大な指笛の中で話すのは、特別だった。
ドライマンゴーとバナナチップス、
そして夢と、ちょっとの自信をお土産に、
私の30日間は幕を下ろした。

「最後に」
私に教訓を教えてくれたのはサッカーだった。
サッカーを通して
仲間に出会い、喜びを知って
今の自分がいる。
光樹に熱く生きることを学び、
爾遠に楽しむことを学び
和思に人は変われることを学び、
衡亮にやさしくあることを学んだ。
北大サッカー部でのサッカーは全く新しいサッカーだった。
個人ではなく、チームで変わっていく。チームで勝つ。
まだ経験したことのない日々だった。
今14年間、ともに歩んできたサッカーに一度別れを告げる。
気づかないうちに自分に染み込んでしまった、甘えを捨てるために。
明日の自分に目をつぶり、
夜をふかした日々があった。
まだ走れるのに、周りがやめたから
走るのをやめた日々があった。
20歳、気づけば人生の五分の一の地点にいる。
覚悟を決め、スピードを上げる時が来ている。
もう妥協しない。努力から逃げない。
仲間に何を思われるか、
恥ずかしい思いをすることを
恐れるのはもうやめる。
恐れるのは、
最期の時
本気で生きなかった日々
本音をぶつけなかった日々
自分の心に嘘をついたその日々を
後悔すること。
自分にできることは
努力
一歩踏み出す勇気
仲間を信じること
自分を信じること
楽しむこと
特別じゃない。
でもだからこそ、挫折してもまた立ち直れる。
いつか自分の弱さを乗り越えた後で、
無条件に私に夢中を与えてくれるサッカーに、戻る日が来るかもしれない。
その時は岩教にも札大にも、対等に立ち向かいたい。
その日まで、
いや私たちが生き続けるその日まで
時に熱く激しく、そして静かに暖かく
共にそれぞれの道を生きよう。
火を絶やすことなく。
“仲間たちへ”

読んでいただきありがとうございました。
さて、ここからはおまけです。
私の考え方、人生観について話してみたいと思います。
留学中マンツーマン授業での先生とのおしゃべりは
週末の予定、恋愛、人生観が王道のテーマでした。
日本で人生観について話したことは滅多になかったので新鮮でした。
もしかしたら私たちは皆等しく人生の中に居るので、異なる国、異なる文化で暮らす私たちにとって、共通の話題はそれくらいしかなかったのかもしれません。
人生観は人それぞれなので興味のある人だけ読んでみてください。
本当はブログの中に書く予定だったのですが、
あまりに長く、迷走してしまったので、後ろにまとめることにしました。
長くなります。そして退屈かもしれません。
皆さんもその覚悟が出来てから読んでほしいと思います。

「自由」
まずはここから話します。
自由と言う言葉を聞いてあなたは何を思い浮かべるでしょうか。
私にとっての自由のイメージは、モンキーDルフィ、のちの海賊王です。
私はフィリピン滞在中、英語名をルフィにしていました。
そういえば、日本で話題になった、
フィリピンに隠れていた詐欺集団のリーダーと奇しくも同じ名前です。
とんだ悪党に先を越されてしまった。
何が彼を自由たらしめているのでしょうか。
自分に正直に生きること。
私は北海道に来てからの生活に関して、これが自由だと思っていました。
バイトでお金を貯めて、友達と遊びに行き、夜は好きなだけ夜更かしをして、
退屈な授業は寝て、好きなサッカーだけをする。
けれどそれは本当の自由ではなかった。
気づけば友達との予定、部活、バイトでカレンダー埋まっている。
そこに自分の時間はなかった。
本当は強くなりたかった。
本当は週末の試合に備えたかった。
本当は勉強もしたかった。
本当は…
自分が何かを頑張りたいと思った時、
周りにいる人がそれを応援してくれるとは限りません。
たいていの場合、世界はそれとは反対のことを、
もっと楽で楽しそうな選択肢を私に与えてくれる。
もしそれを取らないなら、友人や上司に失望されてしまう、
つまらないやつだと思われてしまう。そんな恐れさえも同時に与えてくる。
そこで何を選ぶか。
それこそが本当の自由の前に構える扉なのだと今は思います。
冒頭で触れたように、私たちの命は無限ではありません。
最期の時、私たちは他人にあの時どう思われたかを気にするのだろうか。
私の答えは「気にしない」です。
私が誇りに思うことは、きっと私の心に従ってチャレンジしたこと、本音をぶつけたこと、そして何かをやり遂げたことであり、後悔するのはそれらをやらなかった日のこと。
サッカー男児なら一度は、
強いあの人に憧れて、家で筋トレをしてみたことがあると思います。
そして無情にも家族に見つかり、
恥ずかしくなって何もしていなかったふりをするあの経験が。
その小さな行動が自由への第一歩なんだと思います。
少しの照れ臭さを抑えて、強くなりたいという自分に正直でいること。
続けていれば、やがてそれは当たり前になり、野次は応援へと変わっていきます。

「心と頭」
さて、前の章で話した“自由”に従い、
自分のやりたいことだけをやった時、それは果たして幸せになるのでしょうか。
もしかしたら私たちはやりたいことだけを選んだ結果、学校には行かず、
一日中お菓子を食べながら、アマプラを見ているかもしれない。
自由とは好きなだけ甘いものを食べ、好きなだけのんびりゲームをすることなのです。
と言っているかもしれません。
そのうち肥満になり動けなくなり、もう社会に出る元気はない。
たぶんこれは多くの人にとって自由ではない。
では何をすることが自由なのか。
世界に名高い松下村塾の創設者であり、
300年続いた江戸という一時代に終止符を打った
吉田松陰の言葉の中に、私はその答えを見つけた。
“心と頭の関係”です。
頭ではなく心の声に従うこと。
私たちの頭はいろいろなやりたいこと欲望を私たちに与える。
甘いものを食べたい。エネルギーを使いたくない。お金が欲しい。
人から嫌われたくない。認められたい。
それらは昔、人が浮き残るために役立ってきた本能であり生き残るため大切でした。
でも今、それはすべて簡単に満たすことができ際限がない欲求となってしまった。
一方で心から欲するものとはなんでしょう。
それは良心であり、自己実現であり、興奮である。
それをまとめると、“生きている実感”かもしれません。

「想像」
ここでもう一つサッカーあるあるを言いたいと思います。
誰もが、試合の前日、
自分が最後に点を取ってチームを勝たせることを、
ビッグプレーで雄叫びを上げてチームの士気を最高潮にぶち上げることを、
自分がヒーローになるその瞬間を想像し、眠れなくなった経験があるでしょう。
たいていの場合その夢は叶わない。
それどころか前半のうちに大量失点を喫し、後半には戦う気力すら無い。
そんなことすらあります。
でも世界には、たぶん同じように想像して、
それを実現することを堂々と宣言して、実際にやってしまうようなすごい人たちがいる。
いわゆる主人公補正です。
でも当の本人はそんなこと思ってないと思います。
たぶんあの人たちは、想像し、それを本気で信じ、文字通り人生をかけて努力する。
それが自分にとっての使命なのだと。
私たちの憧れるクリスチャーノロナウドやコービーブライアントはきっとそういう人たちなのでしょう。
もちろん私たちがこんなスペシャルなことをするのは簡単ではない。
でももっと小さな想像を私たちが現実のものにできてしまうことを、私は知っています。
マーフィーの法則というのは、私たちが何か起きてほしくない未来のことを、恐れれば恐れるほど、それが実際に起きてしまうという法則のことを言います。
何か恐れ、それを想像してしまうことで気づかないうちにそれにつながる行動をとってしまっている。
親にばれないように、スマホを持ち出そうとすればするほど、
何しているのと聞かれてしまう。
先生にあてられないように、ひそかに願えば願うほどあてられてしまう。
これとは逆のことが私たちにはできる。
夜、眠りにつく前に、何か自分が輝いているところを想像する、
湧きあがってくる高揚感と不思議な緊張感、
次の日の朝目が覚めてもまたワクワクしたのなら、その日が準備と努力を始める日。
いつ来る輝くのことを思い浮かべながら。
想像の力は私たちの無限の可能性を与えてくれる。
想像が未来をつくるのだと私は思います。
だから寝る前に意味もなくスマホをスクロールする代わりに、
未来のことを想像する時間が私たちには必要だと思います。

「仲間」
私は後輩が苦手でした。
先輩であり、敬語を使われていて、年上らしく飯までおごる。
そんなことをしているとあまりかっこ悪いところは見せられない。
だから後輩と本当の意味で打ち解けられたことはあまりありません。
共感してくれる人は多いと思います。
そういえば、フィリピンで出会った友達は、18歳、同い年、老けて見える25歳、先生、年も知らない現地人、おばさん、おじさん…
国籍も年齢も宗教もばらばら。
でも私たちはみな同じ時代に生きる仲間でした。
だれの後輩でもないから、誰の先輩でもない。
日本でも同じだと思います。
一つ年が上だからと言ってえらいわけがない、人生について知っているわけがない。
親だって悩む、専門家や政治家だって知らないことだらけ。
アドラー心理学では、だれか一人との関係性を縦の関係でとらえてしまえば、
ほかの全員も縦の関係でしかとらえられないと書いてあって、確かにと思いました。
世界中で全員が、人々をさらには地球全体を仲間ととらえられたら、
素晴らしい世界になるんだろうと思います。
そこには従属も、過度の気遣いも、争いもない。
現実には、相手が自分を仲間と思ってくれるかはわからない。
下に見られているかもしれない、気まずいと思われているかもしれない。
でもそれはどうしようもないこと。
気にしてしまうけど、気にしても無駄なこと。
どんな関係性でもその人が
人類のうち、たった64億分の1でしかないことを忘れてはいけない。
できることは一つ、自分の方からは仲間だと思って接すること。
まだ気まずいという概念を知らなかった少年時代のように。
“私は、人を疑い続けてうまくやるよりも
    人を信じ続けて馬鹿を見る男になりたい。“
という吉田松陰の言葉に私は救われました。
最近は、後輩と話すのも、先輩と話すのも、教授と話すのも前より楽しくなりました。

「過去と今と未来」
私は走ることが好きです。
走り出せば、世界の雑音が聞こえなくなり、自分の足音と呼吸だけが聞こえる。
息が乱れぬよう落ち着かせながら一歩一歩集中して地面を踏みしめているとさっきまで考えていたあれこれはどこから消えてしまいます。
でも5キロは長い。走り始める前は憂鬱です。でもやるしかない。
ワークアウト後の腕をぷるぷるさせながらランニングマシーンのスイッチを押すと、
彼はゆっくりと動き始める。
最初の1キロは人生で言えば幼少期。
音楽を聴いたり考えごとをしたりしながらリラックスして流します。
呼吸は四歩に一度、ゆっくりと呼吸のリズムを整え始め、徐々にスピードが上がっていく。
1キロに近づいてくると、覚悟を決めなければいけません。
これからやってくる、試練の4キロに向けて。
まだリラックスしていたいと思いながらも、最初の1キロが終わってしまえばもう
音楽なんて聞いている余裕はありません。
ここからが本番。
ヘッドフォンを乱暴に外し、スピードをあげます。
2キロ経過。
四歩に一度の呼吸は徐々に吸うのが苦しくなってきました。早く息を吐きたい。
ふくらはぎがつりそうな前兆を感じます。
いっそつってくれれば走るのをやめられるのに、意外と走れてしまう。
あと3キロもある。途方もありません。
もう疲れてきているのに、どうやってこの3キロを乗り越えるというのでしょう。
考えてもどうしようもない。できるのは今この一歩を踏み出し続けること。
それだけに集中します。
2.5キロ。まだあまり進んでいません。
でもここであることに気がつきます。あれ、いつの間にか半分が終わっているじゃないか。
あと半分なら頑張れるかもしれない。
そんなかすかな希望は、3キロ超えたあたりで、絶望へと姿を変えて現れます。
足が重くなってきました。
四歩だった呼吸のペースを、二歩に切り替えても酸素が足りない気がします。
早く4キロになってくれと思えば思うほどメーターは進みません。
だから距離のことを考えるのはやめる。
3キロ走ったという過去も、あと2キロあるという未来のことも忘れ去り、
覚悟を決めて、前にらみつけ、己の目の前にあるたった二つの選択肢と対峙する。
今とまるのか。
今次の一歩を踏み出すのか。
そして今という瞬間の、絶え間ない連続のその毎に、後者を選び続ける。
過去を忘れ、未来という未知を思うことをやめ、今と戦う。
私にできることはそれしかないのだと諦める。
そして反対に、それは今だけを頑張れば良いということを意味しています。
気づけば4キロ。
頭の中ではもうラスト一周のゴングが鳴っています。
あとは残ったエネルギーを燃やし尽くすだけ。その後ことは考えなくていい。
どうせ終わるなら全部使い尽くせと、一段階二段階とギアを上げ、終わりへと向かう。
5キロ。
終わってみれば5キロ走ったという確かな結果と、空っぽの心だけが残っています。
過去の失敗は私たちの足を簡単に止めてしまいます。
でも前に成功したことを再現することが不可能なように、
過去に失敗したことがまた起こるとは限りません。
“過去”は変えられない、“未来“はわからない、
“今“だけが、私たちが輝ける唯一のステージなんです。

「日常と非日常」
私たちはどこか、
世界や歴史から切り離された、平和な日常に暮らしているのでしょうか。
私はそうだと思っていました。
家族がいて友達がいて、学校に行き、バイトする。そんな風に平和に暮らし、
いつかくる非日常に期待しながら時が過ぎていく。
世界のニュースや歴史は物語みたいなもので、私には関係がないと。
小学生までは、昭和の時代の世界は本当に白黒だったと思いこんでいました。
でも外国に行って気がつきました。
世界の人々も同じように暮らしているし、同じように気候変動や戦争の脅威を感じている、
そこで私が感じた非日常は、その人たちにとっての日常でした。
日常と非日常なんてものはなかったんです。
世界は繋がっていて、私は自分が日常と思い込む空間にとらわれていたのだと。
歴史についての考え方も変わりました。(叶翔がカラオケで歌う退屈な曲 レキシ ではありません。)
歴史は私の少し前を生きた仲間が、私たちと同じように、
今というその瞬間を生きてきた結果であり、
彼らは歴史という物語の中の人物ではない。
逆に私たちも歴史の中の人物なのだと。
だから歴史がそうだったように、私たちの日常は変わります。
平和がいつまでも続くわけではない。
私たち自身が世界を、歴史を作る一部なんです。
だからいつか来る非日常に期待していては、その日は絶対にやってこない。
今ある私たちの日常を、今、非日常に変えなければならないことに気がつきました。
“日常に溺るることなかれ”
海外に行って強制的に非日常を経験することがなければ、
そのことに気が付くことはできなかったと思います。

「今ここと宇宙と」
自由、他人、時間、日常、歴史…よくわからずいろいろ語ってきました。
でもこれらは一つの表現にまとめることができます。
“今ここと宇宙と”
私たちが意識でき、干渉できるのは今、自分だけであり、
ほかのものはすべてコントロールすることができない宇宙であると。
他人も、過去も未来も、コミュニティも常識も宇宙の一部であり、それ自体なのだと。
そう考えたとき、私たちを悩ませる諸問題が急にちっぽけなものに見えてきます。
そして今ここが、宇宙を生み出す可能性を持っているんです。

「可能性」
“世界にはとんでもない才能があふれている”
さあいざ日常から抜け出し、学び始めた時、
私たちは、世界にはとんでもない数のすごい人たちがいて
私達なんかよりも遥か遠くに居るその人たちの存在に、心が折れそうになります。
そんな時私を支えてくれるのが、段階という考え方です。
全ての能力は段階で、今現状で比べた時に他人がはるか遠くに思えても、
それは私たちがただ自分の可能性の中の低い段階にいるというだけ。
人は変わり、成長する。
私たちが尊敬し、どこか憧れてしまうあの人の存在は、
私たちが自身の中に秘めた可能性なんです。
だから人と比べないこと。
自分を信じてみること。
ムキムキのあの人も昔は細かった。
すごいことを成し遂げた偉人にも私たちと同じような時代があった。
私たちは若い。故に無限の可能性を持っている。
それを温存したまま人生を終えても、もう一度使うチャンスはない。
出し尽くしてやりましょう。最期の時、私たちがそれを誇りに思うこと信じて。

「始めるのは朝」
今、心を新たに、明日から頑張ろうと決意を固めても、
それは決して簡単なことではありません。
学校やサークル、会社に行けば一瞬にして、私たちは日常と常識の中に取り込まれてしまう。
だから、始めるのは朝。
世界が動き始める前の自分だけの時間に、自分と向き合う。
そして誰にも言わず、ひそかに努力し始めるんです。

「風」
最初の一歩を踏み出す時には、勇気がいります。
うまくいかなかったときのことを考えて止まってしまう。
まだ準備が出来ていないと感じる。
でもそんな時こそ進む時だということを知りました。
フィリピンに行く前はビーチとサーフィンのことしか考えていなかった。
こわい日本人だと思いながらも、同じテーブルに座った韓国人が
夢を思い出させてくれるなんて思っていなかった。
全ては動き出した後に始まる。
何か新しいことを始めた時、
最初にするべき事は知識をつけることでもなく、事前に調べることでもなく、
ただその世界に入り込んでみること。
準備が整うまで待ってもいつまでもそんな日は来ない、
進めば知識が後からついてくる。
そこに新しい仲間がいる。
そして何よりも想像もしなかったプレゼントを運命は歩き出したものに与えてくれる。
それはわくわくであり、大切な人であり、もっと違う何かかもしれません。

「何よりも」
モチベーション。人生観。人を動かすものをたくさんあります。
でも何よりも、楽しむこと。
苦しみも、成功も、出会いも、努力も、雨も晴れも、すべてを。
楽しいと思えなくなったらやめたっていい。
読みかけでやめた古い本の、いつの日かそこに残した栞を辿って、また物語の世界に沈み込んでいくように、また始めればいい。
再開も継続。
心からの声に従って、すべてを楽しむこと。
そしてそれに感謝することこそが、私にとって一番の原動力です。

最後に環境について話したいと思います。
ブログで語るべき事では絶対にありませんが、
ここまで来たらもう何でもいいかと思って書くことにしました。
フィリピンで夢を思い出してから二ヶ月、
私が学んできたことのアウトプットとしてまとめてみようと思います。
私個人の意見ということを、忘れないようにしながら、
私たちが立ち向かわなければならない問題について考えてみてください。
「この青い星と」
“百年に一度のハリケーンが各地に信大な被害をもたらしています”
“海面が上昇し、それでいくつかの島が海の中に消えようとしています”
“地球は週末へと向かっていくのでしょうか”
        …
私は何も知りませんでした。
フィリピンで、環境系の学部で学んでいると言いながら、
希望を持たせるような明るい話を語ることはできませんでした。
私たちが環境問題について話し合うのを避けるのは
問題が大きすぎて、
何が問題なのか、何をすればいいのか、
まったくもって分からないからです。
節電?エコバッグ?
再生可能エネルギーに転換することにこだわっていても、問題は解決しません。
エネルギー使用のうち、発電が占める割合は40%程度。
残りは輸送や工業、暖房などに使われていて、
これらの燃料は化石燃料がほとんど占めています。
地球温暖化が進む原因は、発電、車、工場などで排出される、
温室効果ガス(CO2やメタン)ということはもう知っていると思います。
空気中の二酸化炭素濃度は、産業革命前の1.5倍ほどになり、
過去1万年、±0.5度以内の変動しかしていなかった、地球の平均気温は
産業革命以降急激に上昇し、すでに1.1度~1.2度上昇しています
だから世界が出した結論は、脱炭素。
CO2排出を差し引きでゼロにすること。
初めて、世界中のほぼすべての国が同意をし、
地球温暖化に歯止めをかけることを約束したのが、2015年のパリ協定でした。
内容は脱炭素によって、産業革命以降の平均気温上昇を二度以内に抑えること。
できれば1.5度以内に。それに向け各国が目標を決めました。
アメリカは2050年、中国は2060年、インドは2070年、日本は2050年に
CO2排出量を足し引きゼロにすることを目標としました。
SDGs思考やESG投資といった社会的流れが、経済成長を維持しながら、
グリーン社会への転換を促す、技術を発達させ、それが普及すれば
今まで通りに暮らしていける。
脱炭素を実現するためには、
輸送や暖房に使われるエネルギー源を化石燃料から、電気へと変えること。
そしてその電気を、化石燃料に頼らない方法で生み出すこと。
そしてそれを実現しても、ゼロにはできないCO2排出量を、CO2回収技術という、夢の技術と、森林の植林による吸収量によって、足し引きでゼロにする。
それが今、世界が共通で持っているビジョンだというのが
最終的に私ができた理解でした。
これらが達成できれば、世界は崩壊することなく進んでいく。
果たして本当にそうでしょうか。
1.5度目標を達成するには、2030年までに、CO2排出量を
2010年比で45%削減する必要があるとされていますが、
2024年の世界の排出量は、2010年比で増加しています。
トランプ政権のアメリカはパリ協定から離脱し、国産化石燃料の増産を目指しています。
また、2度目標達成には、
2050年までにCO2排出量をゼロにすることが求められていますが
のぞみのCO2回収技術はエネルギーを大量に消費する上に、
現状、普及に向けた開発の達成率は1%未満とされています。
また二度以内の上昇に抑えられたとしても、二度の上昇により世界では
20から30%の動植物が絶滅の危機に瀕し、
海面は50cm上昇し、東京などの沿岸都市は恒常的な洪水リスク、
ツバルなどの島国は大部分が水没。
干ばつ、塩害によって農作物の収穫量は減少。
気候難民の増加など甚大な被害が予測されています。
さらに地球温暖化は、私たちが直面する多くの環境問題の一つに過ぎません。
気候変動、生物多様性の喪失、海洋汚染、土壌劣化、水資源の枯渇、化学的物質汚染、森林破壊など… これら全てが相互に影響し合い、
いつか元の地球へと戻れなくなる臨界点を越えてしまう。
そうなってしまってはもう何をしようと手遅れです。一体どうしろと言うのでしょう
2.3日前に読みはじめた斎藤幸平の“人新生の資本論”という本のなかに
この問題のさらに根本的な原因が書かれていました。
著者は、自国のCO2排出量を削減する、欧米のグリーン政策が、
単に自国での排出を他国に転嫁し、見えないようにして、
新たなグリーン市場を作り上げ富を築くだけの、まやかしに過ぎないと批判しています。
電気自動車は自国では、CO2排出を削減しますが、バッテリー生産のためでリチウムを採掘するのに、大量のエネルギー、水が使われ、CO2が排出されています。
科学技術によって、本来そこにない物質を、
他物質やエネルギーを犠牲に生み出す技術的転嫁。
経済力の弱い他国の資源、労働力を自分のものとして濫用する空間的転嫁。
未来に残すべき資源を搾取し、現在の繁栄を作り出す時間的転嫁。
この3つの転嫁の下で、成り立つ資本主義こそが根本の原因だというのが著者の主張です。
資本主義の力で、
テクノロジーが生まれ再生可能エネルギーによる発電量が増えたのにも関わらず、
化石燃料の消費量が減っていないのは、
新しいエネルギーを得た分、市場が拡大して行く資本主義の性質がそうさせていて、
効率化してもその分使われる機会が増え、環境負荷を増やしてしまうだけなのだと。
著者が持続可能であるための唯一の道として主張するのは、
晩年マルクスの思想をもとにした、
経済成長を捨てた共同体単位での社会への転換なのですが
残念ながら私はまだこの本を読み終えていません。
経済の知識もほとんどないのでこれ以上言うことはやめておきますが、
この小さな共同体という考えは、
河川が本来もつ水域の中で、共同体を作り、水を循環させるシステムである
“水環境圏”という生活様式がこれからの水不足の時代に必要なシステムだと主張する、
北大環境工学部の有名人、丹保憲仁先生の考えに似ていました。
人間関係において、1人を縦の関係で捉えてしまえば、全員を縦の関係で捉えてしまうように、
お金ものを買ってしまえば、すべてがお金を基準に回ってしまう。
でも数千で過ごしていた高校時代と比べて、数万円単位で暮らす今の大学生活の方が
幸せかと聞かれて迷わず頷ける人は少ないと思います。
お金がないと生きていけない。それは間違いありません。
でもそれお金が必要な社会に生きているから。それだけです。
アメリカのZ世代では、
すでに社会主義を支持する人の割合が増え、50%を超えた年もあります。
日本はどうでしょうか。
資本主義が作り出したお金により、1億3000万人が暮らしています。
でも食料、水を国内で賄ったとき日本の土地が許容できるのは、
たった4000万人程度と言われています。
今の食生活を維持するなら、もっと少ないかもしれません。
世界から大量の食糧と、その生産に伴う水を輸入することで暮らしています。
仮に世界が資本主義の道を捨てたら、私たちは生き残れるのでしょうか。
私には村長になることを夢みていた日がありました。
世界から少し離れた小さな村の、外部に頼ることのない自立した小さな村で
幸せな心と希望を持った人たちと暮らすこと。
今、幻想の中で眠っていたその夢が、
人類が生き延びる一つの可能性として、蘇ってきたような気がします。
都会で生きてきた人の、無知な幻想かもしれません。
100億人がそのような暮らしをするのは無理かも知れません。
でも歴史に学び、現実と向き合って、既存の概念を問い直すこと。
可能性を信じる心と想像力を持って、新しい世界を思い描くこと。
そして勇気を持ってそれを提示して行くことが、私たちにはできます。
私はたったひとりで、時代を打ち破り明治維新を起こした吉田松陰が好きです。
でも彼が滅ぼした江戸という時代もまた好きでした。
そこには村があって武士がいた。
私たちはその血を受け継いでいる。
そして外国人はみんな日本人の優しい性格が大好きです。
政治家でも科学者でもない、私たちひとりひとりが
世界新しい生き方を示し、導いていけたらどんなに素敵だろうかと思います。

追記
同期へ
みんなのブログを読んで熱くなった。
一度離れてしまうけど、心は一員でいたい。
みんなが活躍し、北海道サッカーを、ひいては大学サッカーを
盛り上げ、新しい風を吹かすことを心から応援してる。
かましてやろう。

#7 野中大幹

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