悪あガキ

有澤勇 (1年/FW/ラ・サール高校)

高校で帰宅部だった僕が大学でサッカーを再開した理由を過去を振り返りながら語る。サッカーと出会ったのは、幼稚園のとき。外国の幼稚園で英語がろくに喋ることができなかった僕にとって、ボールを蹴るこのスポーツは非音声言語だった。いつだって、誰とだってサッカーをするだけで仲間になれる。小学校ではクラブのメンバーが少ないこともあり、フットサルをせざるを得なかったが、相変わらず僕の注目は球を追いかけることにあった。高学年になり、勝てないチームの王様をやってても、続けたのは、このスポーツへの途切れない情熱があったからだ。中学入学時に帰国し、そこで初めて部活と出会った。最初は、ボールも触らせてもらえず、顧問のシゴキとも言える指導に戸惑ったりもしたが、トップにコンバートされ、年上の代でもスタメンをはれるようになった。さらに、新人大会では、惜しくも県大会行きの切符を逃すも、名古屋市ベスト4に進出した。しかし、身勝手なプレーが多く、チーム意識が希薄だった僕のせいで、他のプレイヤーはフラストレーションをため、ボールの来ない僕もチームへの不信感を抱き、次第にサッカーを嫌いになった。それも3年生になると、受験勉強を始めるかたわら、残り少ない部活生活を惜しむかのように練習に励み、試合では人が変わったように、チームの勝利のために体を張ったプレーをして走った。試合の日の気持ちのたかぶりは異常だった。胸の辺りで拍動する心臓が真紅の血を全身に行き渡らせるのが感じられるような気がし、冷静であろうとしても頭には血がのぼり、気持ちを抑えられなかった。毎試合ここが墓場と思って戦ったので、最後の大会で負けたときはひどく落ち込んだが、やりきった感があり、キッパリサッカーはやめて、受験勉強に打ち込むことができた。よく、部活をしている子は部活を辞めてから成績が伸びるというが、魂燃やしてサッカーに打ち込んでいた僕は、睡眠時間さえも全て勉強に注ぎ込んで、他の子の比じゃないほど成績がのびた。サッカーで毎試合自分の力を出し切ったという経験が、一日一日もう手が動かなくなるまで勉強する受験に活きたのだと思う。そうして、第1志望校はおろか、記念受験の学校まで合格。このとき、中学の恩師(学年主任にして、部活の顧問)に、サッカーを続けろと言われたが何を言っているのかこのときは理解できなかった。そうして、鹿児島での寮生活が始まった。勉強とサッカーを両立して、どちらもトップになることは再現性が低いと感じ、サッカーが好きなことに変わりはなかったが、受験勉強での成功体験からか、サッカーは続けず、勉強の道を選んだ。最初は勉強に食らいついていくも、どうしても勝てない周りの生徒に、このとき初めて劣等感というものを抱き、勉強からドロップアウトした。親元を離れ、サッカーがない生活で、気の合う仲間もろくにできず、いつも孤独を感じていた。このとき初めて、自分にとってサッカーをすることや、それを通して得た仲間の大切さに気付いた。また、中学の恩師が自分にサッカーを続けろと言った意味がわかった気がした。先生は僕がこうなることを予見して言ったのだろうか。勉強に手がつかず、志望校に受かる自分からかけ離れた位置にいる自分の現実に耐えられず、学校も休みがちに。そんな状態では、前期一本で受けた大学(北大ではない)に落ち、浪人が決まり、実家へ帰った。浪人時代、奮起しようとするも、かつてのcompetitiveさを失ったままで、何も変えることができず、消極的理由で北大に進学。いくつかの部活やサークルをみて回ったが、答えはサッカー部一択だった。高校時代自分にとって不可欠だと気付いたサッカーをすれば暗雲たちこめる中にも希望の光が見えるかもしれない。そうして北大サッカー部に入った。まだ大学サッカーの強度になれなかったり、チームメイトとの共通認識のズレなどでうまくはいかないこともあるが、それでも今サッカーをできていることに感謝している。かつての挫折も知らないイケイケの自分ではないけど、自分の中の何かが良い方に変わるように、不格好でも、悪あがきしたい。

#99 有澤勇

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