「ずっと変わらなかったものってな~んだ?A. 常に変わり続けていること。」

既に引退から3か月は経っている。体は細くなって、運動は月1。研究室にフルコミット。そんな俺のブログがようやく完成した。ぜひ読んでくれ。めっちゃ長いけど。

まさやの再三の締め切り宣告にも関わらず、なかなかブログは書き進められなかった。締め切りを守れないのも、変わらないところではある。一度はシーズン中に書いていたブログ。もっと言えば3月のタイミングで一度要求されて準備していたのに結局書かなかったブログ。書きたいことはいっぱいあったはずなのに、あの頃の熱量と想いはどんどんと薄れてきていて、一方で引退した身でこんなこと言うべきかどうかとも悩んで文を書いては消していた。そんなこんなでこんなに遅くなってしまった。まーごめ。もちろん、研究室に平日毎日夜中までいたからでもある。年末年始は本当にすまん。

まあでもせっかくだから、シーズン前に書いていた文も合わせて引退ブログにしてしまうことにした。

「skit- HIPHOPは文化だブームじゃねぇ!(2017 T-Pablow)」

代替わりから少し経って、年明け。最高学年になった俺らは、上の代にならって北海道神宮へ勝利祈願の参拝をしようという話になった。3年前から先輩たちが参拝しに行くのを見てきて、きっと自分の代も行くのだろうと思っていたし、当然の流れであった。すでに三が日ではなかったが、1月中なら初詣だよね。いや、別に3月でも年明け最初の参拝なら初詣じゃないか…?まあでも、シーズン中のどっかでは絶対に行こう!!俺らの決意は固かった。

―ブログ書くのが遅すぎて2023年の初詣も終わってしまったし、何なら本厄の厄払いもしてきちゃった。

(閑話休題)

さて、初詣というのは、元来は家長が自らの家から恵方の方角にある神社大晦日から元旦にかけてにこもる年籠りという文化から大晦日と元旦に分けて詣でる形式に変わり、現在の、元旦以降に大きな神社などに行って初詣を行う文化になったのは明治中期。つまり初詣とは鉄道会社の策略ともいわれるたった50年程度しか歴史のないナウい流行なのである。まあ、大昔からの文化だと思っていたものが実は割と新しい流行だなんていうのはざらにある話で、このブログがつい3年前までは、Facebookのページでオトボケ写真1枚と共に内輪ネタで回っていたブログリレーであったなど後輩諸君が知らないのと同様である。当然、ブログリレーが何年前から行われていたのかを俺が知る由もない。その時々のブームは、いいものであればその後も積み重なり文化になるし、その逆、いらないものは消えていくから、ナウいなんてワードはきょうび誰も使わない。“きょうび”も。我が部においてはそうやって廃れるものもありながら残ってきて文化になったのが“ごっつあん”であり、消えていくブーム(であれ!)が“試合前写真でHを手で作る”であり、そうしたものすべてが集まって出来た伝統こそが我らが体育会サッカー部である。創部から99年、初詣の文化を持たなかったOBから受け継がれてきたものが確かに存在するはずなのである。初めて参加した部活の新歓飲み会は体育会といった感じで面白かったし、新歓BBQも夏の海ジンパも全員で行くトップチームの応援も、確かに引き継いでいきたい文化であると思っていた。試合後に狭い部室に押し込まれてやるビデオ会、それを円滑にするため、ビデオを撮りながらリアルタイムで確認ポイントとその時間をメモする仕事。それらはとても理にかなっていると思っていた。

以上、今となっては(今年は)すべてやっていないものである。1部リーグと2部リーグ、コロナ前後。浅井事件以前、以後。ついでに世紀も跨いだ99年生まれとミレニアム世代。僕らは、非常に大きな転換点を乗り越えた年代であったと、改めて思う。今では山田は当時の浅井君と同じ研究室でヒイヒイ言っているなんて、ノストラダムスもびっくりの変わりようである。

そんなこんなで大きな変化に揉まれ続けた”狭間の世代”の話を少しさせてもらうことにする。

「序章- シーズン開始前」

コロナに潰された2年目のシーズンが終わり、いわゆるwithコロナで始まった3年目のシーズン。チームの調子はいいものの、夏あたりから個人的に言いようのない不安を感じるようになっていた。何に対する不安かはわからぬままに、ただコロナ前のシーズンと同じように過ごせるように、かつて部でやっていたことを後輩に教えてあげられるように、引き継いでいけるように。そんなことを思って自分の思う”本来のサッカー部”然とした部活であることを目指して動いていた。後述するが、求めていたのは練習中の厳しさと、対してオフでの親密さであった。練習中には盛り上げる声と厳しい声が必要で、互いの信頼関係を構築するために風呂や飯に連れ立っていくのはいい手段であった。祝勝会にもこだわったのは1年目の時の意趣返しの気持ちもあったかもしれない。アイリーグは(山田の決勝点で勝った!) 1試合しか(南雲家で某漆くんを交えての祝勝会は思い出深いものの)勝利はなかったが、一方トップチームは学生リーグ無敗で優勝し、部員もマネも人数が多く、雰囲気も良く1年を終えた。自分の不安は杞憂であったのかと感じた。最終節を終えた4年目に憂いはないようにも見えたし、彼らは1部昇格という役目を果たして去っていくためある種それも当然であった。さて、そんな調子で4年目になったわけだが、チームの指針の話し合いをしていたあたりで自分の不安の正体が分かってきた。”コロナ禍を乗り越えた新しいチーム作りが合っているのか”に対する心配であった。今まで99年の歴史の中で紡いできたルールと文化が無理やり大きく変えられ、今までとは違うチーム(部活)作りをする必要があった。そんな不安があったからこそ、コロナ禍でやれなかった事を再びやることで過去のチーム像(偶像)を取り返そうとしていたのだろう。祝勝会を開催したがった理由はここにもあったのだ。特に、あの時期に制限されたものは娯楽の側面が多いように思う。飲み会やレクリエーションは部活動として認められていないものの元々部活をやっていく上で重要なイニシエーションとして存在していて、それが制限されたここ数年はサッカーのみを通じて仲を深めることがベースであり、悲しくも、それだけでは大人数の個性強めの集団が一致団結するには十分でなかったのかもしれない。コロナ禍の少人数部活制、AB分け制度等により全体練が減っていたのももちろん一因ではある。そうして、俺からしたら上下の関係は一部を除き希薄に思えていた。そんな過渡期を過ごした俺は、コロナ禍を超えた北大サッカー部が、以前と別物になってしまうのが悲しくもあったのかもしれない。そんな中で新しいビジョンを持つこともできず、かといって思うがままに自分の思うチーム像を目指すことも憚られた。今年何かを変えた時、それがうまくいかなければ反動は下の年目にいくし、新しいことを始めても今年以降の面倒が見れないから、変革は下の年目に任せようと、そんな風にも思っていた。そうして不安の原因が分かったところで不安自体が解消されるものではなかったが。

サッカーのうまさはともかく、各部門の活動やチームの組織的な部分についての意識が高かった自分たちが、あえて行動せず、3年目の成長を促して待とうという意見で同意したのは自分だけでなく周りも少なからず同じようなことを感じていたからなのかもしれない。1年間戦い続ける上でチームの戦力の軸になるであろう3年目がもっと部全体に対する視点を持たないとチームがうまくいかないとも思っていたし、もっと責任をもって踏み込んで欲しいとも思っていた。あらゆる物事に対していったん後輩同士あるいは後輩発信の解決を待とうとしていたのは1年間の指針であった。ただひとつ、4年目の共通認識で3年前のような思いはしたくないという点だけは1番に思っていた。引いて守ってワンチャンスを狙うだけの見ててもやってても面白くないサッカーでなく、正面からぶつかって攻撃回数の多いサッカーをしたいと343を提案してきた海渡にみんなで賛成した。3回引き分けるより1回勝つことで勝ち点を積み上げようと、それができるはずだと、そう思っていた。

こうして4年目としての、自分としての、活動指針は決まった。2部降格を味わった最後の世代となるべく、コロナ後最初の世代から始まる新しい北大サッカー部の文化の土台を作るのだ。旧時代の人間として残せるものは残し、100周年を迎える新生サッカー部に向けて成長を支える存在になっていこう。俺ら、サッカーへたくそな狭間の世代だけど、その分オフザピッチで部に貢献してきたつもりだよな。最後、1部に残留させて、下の代にバトンを繋げれば、俺らにしてはよくやったんじゃないかと、そう締めくくろう。そんで、できればなるべく多くメンバーに入ろうな…

こうして来年以降の礎となるべく、99代目のサッカー部はシーズン開幕に向かっていったのであった。

開幕まではチームは好調に思えた。岩教、札大、東海のBIG3(去年時)との練習試合を悪くない感触で終え、これならトップチームが出てきても太刀打ちできるんじゃないかと思えていた。個人的に、WBとしてスタメンとして出れてもいた事にも一応触れておく。諸先輩方が知ったらびっくりであったろう。驚きたいのはこっちである。さて、打って変わってシーズンが始まってからは悲惨な状態が始まった。が、ここで一戦づつ振り返るつもりもないので、その代わりに、Tが彼女とは別の南郷18丁目の女に会いに行ってるってことを報告しておきます。そんで鎌倉は早く報告に来い。

さて、そうして負けを重ねたまま後期に入り、なかなか勝てないどころか惨敗を繰り返した北大が、自分たちがやりたくなかったはずのブロックを引くサッカーに寄って行ったのは致し方ないことではあったのだろうが…。

<中略>

「サッカー部はどういう集団であるべきか」

この1年はそれに悩まされた。3年前、誠先生は部活動は教育の場でもあると言っていた。ここで人間的な成長こそしてほしいと。2年前、多賀遼太郎は部に理念を掲げた。ただサッカーをやる集団では駄目なのだと。ずっと、自分たちが“体育会サッカー部”である事は誇りであった。プロを目指す集団ではないがお遊びで集まってるサークルじゃない。ずっと、”部活”であることにこだわりを持っていた。

うらけんがサッカー部に入ってくるとき、2回目に一緒に飯を食ったのがファクトリーのとんかつ屋だったのを覚えている。味はまんぶう以上玉藤未満だった。そこでうらけんは俺らに対して「部活って、要は規則が厳しいサッカーサークルでしょ?」なんてほざいてきた。俺の中では断じて違ったし、あーだこーだ言ってうらけんを論破したのも覚えているが、その実、俺自身の方が納得していなかった。うらけんは当時、俺に言われてから考えが変わったとも言っていたし実際あいつは部活に入ってから考え方が意味わからんぐらい変わったというかブレているけど、こっちはこっちで部活至上主義のガラパゴスの外からやってきた能天気ブラックバス(椋本越え)の一言で悩まされたのである。言われてみれば、規則が厳しくなったサークルも、部活も、客観的に見ればほとんど同じである。で、あればこそ、自分でその差異に価値をつける必要があった。そんな事をちんけな部活プライドのために考えていた結果、「部活はサッカー部本位でありサークルは構成員本位である」のだと納得することにした。俺らのために部活があるのではない、部活のために俺らがいるのである。これは元々考えていた自分本来のサッカー部に対する考え方に一致した。全員が、ただ規律を守るだけではなくチームのために自ら行動する必要がある。必ずしもサッカーに限らずとも、部門の仕事だったり周りとの関わりだったり、プレー、戦術に関する指摘だったり、全員が全員、部に対して何か役立とうとしていること、何かを与える存在であること、そういう事が必要であると、そう思っていた。だからこそ、そうでない人間あるいは行動は気に食わないものであったし、サッカー部という集団にそぐわないとも思っていた。だがしかし、その一方でこの考え方が独善的なものであるようにも思っていた。あくまで俺の考えの基本として「生活の全てがサッカー部第一」であったからだ。だから、4年目となり立場と説得力を持ってしまった俺からは、自己本位に思える行動に対して直接非難をする事は避けていた。もちろん、退部者が多く出ていたことも厳しい発言を避けていた理由でもある。

「俺らは俺ら自身を懸けてサッカー部にいるはずなのに、お前はそうでないのか。自分を犠牲にしてでもサッカー部のためにあろうという情熱は、愛はないのか。お前は、仲間ではないのか。」

こんなクサいセリフを、吐いてみたかった。思い描いては、いた。俺はそういうタイプ。

「永年勤続・年功序列・体育会サッカー部」

さて、ここで触れなければならない今年の大きな問題として退部者が複数名出てしまったことが挙げられる。もちろん、大学生活において選択肢は無数にあるため、サッカー部以外の道を選んだこと自体は尊重すべきことであるのだろうが、常々思ってきたけど言えなかったことを勝手に書かせてもらう。書こうか迷ったけど。

一緒にやってきた仲間が自分たちと別の道を歩むことを決めてしまうのは悲しいものであったしその選択をさせたことも悔しかったが、俺から言わせればだけもひでもあの選択は“甘え”であったし、怒りもした。そもそも部活をしながら努力できることもせずに辞めてから行動しようとする時点で“やりたい事“もたかが知れてるし、2人以外でも退部の挨拶を受けて拍手をしたことは、一度もなかった。(そしてさっきのセリフを再生するのである) だが、退部者を甘えと断じるのは簡単だが、それ以外の理由も必ずあったはずで、それが何なのかをずっと考えていた。(努力を怠って辞める奴はともかく、残れた人たちもいたはずでは。)

サッカー部から離れる理由はそれぞれであるだろうが、サッカー部に対するモチベーションの低下なくしてそれらの選択は為されない。重要なのは、サッカーそれ自体に対するモチベーション(愛)ではなくてもいいのだという事である。たとえケガをしたり調子が悪かったりで試合に出れなかったりしてプレイする事へのモチベーションが下がっていても、サッカー部自体へのモチベーション(愛)があれば、辞める、あるいは休部といった選択肢は取られにくい。部活に行くこと、部員と過ごすこと、それだけが辞めない目的になり得るからである。

元来、サッカー部に所属するという事は他に犠牲にするものがある程度必要である。朝練に行くために生活リズムはずれる、疲れて勉強に集中できない、飲みに行けない、食事に気を遣うetc…。すべて当たり前に制限され、我慢してきたことである。だがそんな事は承知でそれでも部活に入ってきたのは、それらを超える価値を見出したからのはずである。そうして入ったはずなのにモチベーションを維持できず辞めていくのはサッカー部に魅力を感じなくなってしまったからに違いない。その原因はチームが勝てないことと人間関係にあるように思えた。前者はもう、そのためだけにサッカーをやってきてるのだからあらゆる手を講じて頑張り続ける他ない。そして、後者に対してもちろん冒頭で触れたように仕方ないところはあるが、俺らにも責任があるようにも思えた。人間関係が悪いという事はなかったが、縦の繋がりは過去見ていた先輩らよりも希薄に思えていたし、辞めたやつは総じて横のつながりが薄かったように思う。だけど、4年目がどう関わればいいかは難しく、結局頭を悩ませるのみであった。

また、これに付随して、もう一つ別の問題として今年は規律が乱れていたように思う。遅刻は非常に多く、備品の管理も甘かったり上の代に任せすぎなことが多々あった。部活の雰囲気に不満があり、そして休部者も多かった。正直、練習意欲や意識の差にも思うところはあったし、勉強や就活を理由に休部するのもサッカー部への愛がないのが理由の甘えだと思っていたが、前述の通り、縦の関係も含めそういう自分の考えが古いとも思っていたし、翌年以降の影響を考えると厳しい言葉は控えざるを得なかった。ちなみにリトル山田Aは「やる気ないならさっさと辞めろよ」って言っていたし、Bは「辞めるんじゃなくて踏ん張って頑張れよ」って言っていた。Aが右金でBが左金である。

もちろん、同期同士では甘えは律してきたし厳しい言葉も投げあってきた。サッカー部とは己に厳しい集団でありたかったし、部活に心血を注げない奴を排除して同じ気持ちで戦う集団でありたいと思っていた。だが、全体に対してそれを強いることが強くなることに近づくのか、その思考が正しいのか、コロナ禍と休みを超え変わっていく世代の狭間で、サッカー部という集団の在り方を模索していた。

「コミュニティとしてのサッカー部」

厳しさの純度はともかく、休部、退部者が減り全員が同じ方向を向くために必要なことは明確に部活の居心地の良さであると思っていた。サッカー部とその部員を愛し、この環境を愛せたら、どんな選択をするにおいても一番に部活のことを考えられるはずで、全員がそうであればいい。もちろん同期仲が深まるのが最も簡単かつ重要ではあるが、縦の関係も非常に重要なものであるため、その関係性を強めることは常に意識してきた。練習中や前後にコミュニケーションを多く取ったり部活外において食事や飲みに連れていったりすることに加え、多くの学年が含まれる会を開いてきたことも有用であったと思う。その点で、去年から行っている縦割り班の活動は今後ともやっていけばいいと思う。もちろん、個人だけでなく全体として、サッカー部が、そこにいるだけで満足できるコミュニティである事はチーム力に関わってくるはずである。各年目すべてが重要なファクターであり、その意識をもって日々チームに関わって欲しいと、そう思う。

来年は祝勝会が毎週末開かれるのを期待しています。それと、軍団員は俺に使われた額をちゃんと下の年目に使ってください。

「大事にしたい、愛と気合。」

“サッカー選手”としてのサッカー部と”コミュニティ”としてのサッカー部はどうしても違いがあり、常に両立させることは難しくて、結局サッカー部の在り方に正解は出なかった。練習中の茶化しと叱責のバランスや、お互いの要求の厳しさの度合いなんていう真面目な問題もあったり、一方で筋トレしたのに飲み会したり、午前練の前日なのに飲んだり、遅くまで麻雀したり、それらも間違いなくサッカー部の楽しみで、それらがアスリートとしてマイナスなのもわかっていて、その矛盾はずっと抱えていた。

だからその分、部活のコンディション調整にに負い目がある日はいつも以上に張り切ることにしていたし、ただ一つ、特に3年目以降になって意識していたことは「すべてを本気でやる」という事だった。時勢も手伝って、遊びの企画や飲み会は多くやれたし、その一回一回を全力で楽しんでいた。部活においても、あと一歩頑張れるヤツでありたかったから、手を抜いた日はなかった。一度妥協すると、二度目の妥協のハードルははるかに下がるものである。代替わりミーティングでも言ったが、体調が不十分でも最初に気合を入れれば意外とどうにかなるものだと思う。コツとして、自分が逃げられないようにあえて他人に厳しくしたり、大見え切ったり、理由を作るのがいい。あとは、キャラクターづくり。

もし、どうしても最後に自分に甘くなっちゃう奴は、滝行に行くことをお勧めします。俺は高3の夏、乃木坂が行ってた檜原村の滝に、勉強もせず合格祈願の滝行に行ったけど、受験に落ちてもめげないメンタルを手に入れました。受験には落ちたけど。そういや最近平本蓮も滝行してました。

「つまり」

部の話と自分の話が混在してしまったが、部としてこうあって欲しいという姿を目指して自分が活動してきたから、ある意味同じ話でもある。こうして文にまとめてみると苦悩してばかりで正解を出さないまま引退してしまったようでもある。ただ俺は、もっと部に対して厳しくありたくて、そうできなかったけど、そうした方が良かったのかも未だにわからないし、もう正解を追い求める熱もない。そして、引退した身の今となってはもはや現役にこうして欲しいと思うこともあまりなくなった。厳しい側面も緩い側面も必要で、その度合いも比率も年目の色なのだろう。それぞれの正解があるなんて結論は、ありきたりで面白くないけど。だからこそ、考えることとぶつかる事はやめないで欲しい。

今後のサッカー部に願う事といえば、自分自身と、お互いと、サッカーとしっかり向き合って逃げないこと。そしたらきっとキツくても楽しいよ。楽しく過ごしてくれ。楽しい日々と莉沙の笑顔が一番。

「後日談」

この1シーズンを振り返ってどういう感想を抱けばよいのだろうか。最後、アイリーグの4年目×2の劇的弾と入れ替え戦での勝利で終われたために最後は満足げな顔で卒部してはいるが、前年度に思っていた以上に1部リーグは厳しい戦いであった。2部では、学生リーグにおいては前プレとポゼッションを詰めておけば試合には負けず、試合に勝ててる間は自分たちの欠点に気づきにくい。そんな2年間でチームは1部リーグのレベルから離されてしまっていたようだった。思うような試合展開にならず、学生リーグで勝ち続けてきた下の代達は味わったことのない閉塞感を感じたと思う。そんな状況でチームを引っ張っていくはずの4年目はなかなか試合で活躍できずに後輩に頼りきりだった。成し遂げたことも積み上げたものもほとんどない。2部に落ちなかっただけの事である。しかし、だからこそ、この一年、失ったものはなく、得たものは大きい。つまりこれはもちろん前進である。ネフェルタリ家もそう言ってるよ。

この1年をどう捉えるかどうかは来年以降に決まるものである。「あの1年耐えきったおかげで全国出場できたな」って、そういうサクセスストーリーを楽しみにしています。

「終わり良ければだいたいふわっと良かったよねってなる」

 ~副題:この章の題名を合言葉にするので会った時に聞きますよ^ ^ちゃんと読んでるかな?~

入部することがいい選択なのか悩んでるぐらいなら、選択してから選んだ選択肢を正解にするために過ごしていけばいい ——今年の新歓で入部を悩む一年生たちに何度か言った言葉である。

俺はずっと持ってる男になりたくて、特別なヤツでありたくて、かっこいい人間に憧れてた。男の子ってみんなそう。俺の最初の挫折はたぶん中学受験で筑駒に落ちたところで、次が中学で最後の大会をベンチ外で終えたところかな、そんでその次が東大に落ちたところ。そんで北大でBチームに落とされてるとき。いずれもショックな事件だったけど、あんまり引きずって気にしていなかった。自分で納得していたのもあるし、それらの出来事が最終的な俺の成功のための布石なんじゃないかって思ってたからでもある。実際それで麻布に行って、北大に来て、サッカー部やって、なかなか楽しく過ごしてる。

俺は人生を長いエピソードトークみたいに生きてて、そういう失敗とかを振りにしといた方が成功時オモロいみたいな感覚があるし、すべてを活かしてやろうなんてバイタリティもある。つまり、全て自分の捉え方次第であって、物事の良しあしが決まるのはそれらの出来事の結果を迎えてからだと思っている。逆に言うと、もし何かでうまくいっていなくても、納得いくまでやり遂げれば無理やり成功に持ち込めるのである。成功したなら、選択は正解だったということだ。

1年の時から、試合に絡めなかった分、筋トレは欠かさなかったこと、サーキットで妥協しなかったこと。

2,3年でメンバーに入れず過ごした分、アイリーグで強い相手とやり続けられたこと。めげずにトップには絡める位置には居続けたこと。

4年で、スタメンで出れない分も、ベンチスタートとしての役目を準備し続けたこと。足元下手な分走り続けてきたこと。

函教戦、途中から出て2得点。俺、相変わらずやるときやる男なんだなって思えてきた。

結局、最後の試合はスタメンじゃなかったけど、途中から試合に出るだけで空気を変えて、決勝点に絡む選手、まあかっこいいじゃん?

これと、高3の時の、都大会進出を決める決勝点決めた時と合わせてわかった事がある。

どうやら俺ってやつは、特別カッコいい、持ってる男であるらしい。

サッカーやってて、よかった。ありがとう。

そろそろお礼に、年目の皆で北海道神宮にでも行って100年目を迎えるサッカー部の繁栄祈願でもしようか?

2023年2月7日 有機化学第一研究室にて。卒論発表用のスライド原稿を作ってるふりをしながら。

p.s.年目のガキ大将、永遠の悪童へ。

一々色んな人へのメッセージなんて書かなくていいかと思っていたけれど、やっぱりこいつには一筆記しといてもいいかもしれない。

1年の時から俺らの代の代表は決まっていた。年目で一番サッカーが大好きで、湊と二人、年目で実力が

抜けてて、そんで、年目で一番主将に向いていなかった。ゲームキャプテンと部長は分けようなんて話もひでとかとの話し合いで何回も出た。自分勝手で独善的で、周りへの言動で荒れた回数も、それを諫めた回数も数えられないぐらいで。とてもじゃないけど、監督のいない北大において、チームのための業務が積み重なるキャプテンにふさわしいなんて全然思われていなかっただろう。俺らの代以外からは。   

―――――それが、俺らの代の主将、井田海渡であった。

シーズン中、結構な言い合いになってめちゃめちゃ白けた飲み会があったな。いつも通りのようなお前の言葉に何故だか無性に腹が立って、その日はやたらとみんなに暴言を吐いた気がする。イダカイトは確かにずっと変わらない悪童だけど、それでも4年になるにつれ大きく変わっていて、それがどうして周りに伝わらないのかという怒りでもあった。お前の変わらない部分が、変わってる部分を覆っているんだと。そんなイダカイトを大してサポートできない自分の情けなさへの怒りだったかもしれない。

この1年、情けなく感じていたことがある。負担をお前にだけかけ続けていたことである。俺は、お前を信頼しているという言葉を盾に、チームの全てをお前とひでに押し付けてしまっていた。年目の中で試合でチームに絶対的な存在だったのはお前だけだった。俺らはトップチームとしての立場で考え続けることが難しくて、自分のことを差し置いて常に戦術的にチームの事を俯瞰する事は出来なかった。チームが負け続けて海渡に不満が集まっていることも感じていて、その上でお前に任せることしかできなかった。戦術は4年目の合意だみたいな顔して、そりゃもちろんメンバーの決定権がないからしょうがないっちゃそうなんだけれど、俺はただ1選手としてしか過ごしてこれなかった。ひでが監督をやってくれるようになって、いくらか負担を軽減させてやれるのを、ありがたく思っていた。自分にはなにもできなかったから。SATとして、分析としてもっと何か出来たとかでなく、一人の人として支えてやれればよかったのに。でも、ひでのおかげで最後は自分のプレーに集中できたんじゃないかな。俺が函教に点を決めた時、自分のことのように嬉しかったってお前は言ってたけど、最終節でお前が点を決めてくれたこと、俺もめちゃめちゃ嬉しかったよ。後からあの日のGPSデータを見て、お前のゴールパフォーマンスの軌跡がヒートマップで出てきたときは涙出そうだった。笑いで。

お疲れ様。この1年のサッカー部を作り上げてくれて本当にありがとう。  

今後ともよろしく。

#18 山田宙昂

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