蹴着

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まえがき

私は6歳の頃から16年間サッカーを続けてきた。人格や交友関係などサッカーを通して培われた部分が大きく、私の人生=サッカーと考えても良い。したがって、私のサッカー人生を語ることは私の人生を語るのと等しいということである。本稿では私のサッカー人生を振り返り、私の想いや考えの変化を述べたいと思う。

幼い頃からアニメや漫画の主人公みたいなキラキラした人生に憧れていた。
周りから認められ、信頼され、賞賛され、常に自分の周りを誰かが囲んでいる。まさにその状況を実現できる職業だと幼い頃に感じていたのだろうか、プロサッカー選手になることを夢見てボールを蹴っていた。

はじまりは中学3年生の時、1度目の進路選択だった。
有難いことにお誘いを頂いた私立の強豪校に行くか、サッカーと勉強両方に力を注ぐ公立の刈谷高校かの2択で悩んだ。それはサッカーに人生を注ぐか否かの決断だった。

「プロにはなれないんだろうな」

中学生のとき所属していたクラブチームには、小学生のとき地域の選抜で一緒にやっていた子が何人かいて、その子たちは中学生になると県選抜に選ばれていった。自分もいずれとは思いながらもその子らと自らの間に壁を感じ、心の奥底でそう感じてしまった。そう決めつけてしまった。0では無かったかもしれない可能性を0にしてしまった。
こうして私立の強豪校に進路を決めたその子らを横目に受験勉強に励んだ。頭の中では将来への投資として優れているのはサッカーより勉強だろうと考えていたが、心の中ではその子らが輝いて見えた。正直なところ、自分自身には私立の強豪で、サッカー1本でやっていく自信がなかった。それでも受験勉強の間は、もし自分が私立の強豪校に行ったらどうなるんだろう、ということばかり思っていた。自信がなくて1歩を踏み出せなかったのに、どこかサッカーへ対する想いにけじめをつけられていなかった。

「全国大会に出たい」

刈谷高校サッカー部へ入部した後、当時のキャプテンが全国大会に出ることを目標として宣言した。全国大会出場という響きはかっこよく、全国大会で大声援を受けながらピッチで躍動する姿を想像しながら高校3年間をサッカーに費やす覚悟を決めた。
2年時に一個上の代が全国大会に出場したためチャンスはあったが、メンバーに入ることはできなかった。3年時にはスタメンに定着し、今度は自分の代で全国大会に出場するチャンスを得ることができた。ただ、同時に2度目の進路選択の時期も迫っていた。中学から勉強を頑張ってきて今更やめるのはもったいないから、安泰な将来のためには、知名度の高い国立大学に行くためには、と2年時まではよく練習後に行っていた筋トレもいつの間にかやらなくなり、代わりに練習が終わればすぐに塾に向かうようになっていた。

「全国大会に出るのは厳しいかも知れない」

そう思うようになったのはその時期からだろうか。入部当初決めた覚悟はなんだったのか。練習後すぐに塾に向かう途中、勉強しなくてはと思う反面グラウンドから去るのがもどかしかった。自分自身サッカーの実力が愛知県のトップレベルで通用しないと分かっていて、さらに練習する必要がある事には気づいていた。それでももどかしさを心の奥に押し込み塾に通った。

結果、自分の代では総体県予選ベスト16、選手権県予選ベスト8で敗退。11月に刈谷高校サッカー部を引退した。入学時に掲げた全国大会出場に程遠い結果で終わった。様々な感情が込み上げた。試合に負けた悔しさ。同期と引退する悲しさ。そして、あのとき勉強に逃げグラウンドを後にした中途半端な自分自身への情けなさ、失望。そのときはもう分かっていた。いや、1度目の進路選択の時点で分かっていたことだったが、自分を知ろうとすることから逃げていた。

自分は、中野雄斗は、「臆病で常に逃げ道を用意しようとする、そして、逃げ道を選んだ場合も元の道に執着する芯の無い人」だと。

こんな人間を誰が信頼するだろうか。誰が認めてくれるだろうか。皮肉なことに気づけば幼い頃から憧れていた将来像とは真逆の人物像になっていた。そんな自分が嫌になった。もうサッカーを辞めよう。引退して少し経ち、そう決めたはずだった。

刈谷高校サッカー部を引退してから5ヶ月、北海道大学に入学した。そして直ぐ、何かの縁で北大サッカー部の先輩と知り合い、サッカー部の話を聞くことになった。

「北大サッカー部は本気でサッカーできる場所」

その言葉がキッカケだった。サッカーはもう辞めよう、そう思っていたのに。また過去を繰り返すのか。ただ、この諦めの悪い執着の念は刈谷高校サッカー部を引退してからより一層膨れ上がっていた。

「サッカーに執着するのはこれで終わりにする。そのために大学4年間で自分を納得させる目標を成し遂げよう。」

そう心に決めて先輩の話を聞き終えた後に入部を決めた。
大学サッカーでは、DENSOカップ北海道選抜選出を目標にした。当時北海道学生リーグ2部に所属していた北大で選出されるには相当高い目標と考えていい。サッカーへの執着の念が解かれるのはこのレベルの功績を達成した時だと思った。
それから時は経ち、執着の念は思いもよらない形で解かれた。2年目での怪我、3年目から4年目序盤にかけての体調不良によって、身体的にも精神的にも高いレベルを目指せなくなってしまった。同時に北海道選抜選出という目標も諦めざるを得なくなってしまった。これが自分を変える大きな転換点となった。

「このチームを強くしたい」

4年目になり、副主将に就任した。
真面目な性格で役職に責任感や重みを感じてしまう自分は、3年目が終わる頃には、4年間の目標やサッカーへの執着よりも、どう強いチームを作り上げていくかという風にベクトルはチームに向くようになっていた。
副主将になってからはチーム全体をよく見るようになって、チーム内の雰囲気を感じ取ろうとするようになった。皆と調和を図り、下級生やOBとの上手い関わり方をよく考えるようになった。サッカーから勉強に逃げた高校時代を思い出し、同じ過ちは犯すものかとチームを強くするために本気で部員やOBと向き合った。
そして、主将の本郷から戦術面を任せて貰えたり、他大学の越山さんに指導をお願いしたその行動力をOBの方々が認めてくれたりということは、幼い頃から憧れていた、他者から信頼され賞賛される人物像に、向けてこれまでは後退していたが、ようやく前進の一歩を踏み出せた気にさせてくれた。そんな自分が少し誇らしくなった。

振り返れば、それまでは自分自身の目標に向けて心血を注いでいた。反対に、それからはチームの目標に対して尽力した。それは自分自身での目標でもあったし、他者の目標でもあった。目標に対しての手段は人それぞれの考えに拠るもので、サッカーがチームスポーツである以上、チームとしてはその意思統一をする必要があった。その意思統一は自分にとっては慣れていない作業だったため難しかった。そのため、不器用な点は至る所にあったと思う。不満を抱えている部員も居たかもしれないが、首脳の決断について来てくれたことが、さらに自分を頑張らせてくれることに繋がった。そして、1部リーグ残留というチーム目標を達成することができた。部員には本当に感謝している。
そして、北大サッカー部を引退した今、次のステージではさらに大きな目標をチームで達成したいと思う。そのために自分自身の価値を高めていきたい。

その前進の一歩を踏み出したときの気持ちを忘れず、自分らしく歩みを進めたい。

あとがき

長くなってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。私はこれまで自己表現するのが苦手でしたが、北大サッカー部に身を置いてその部分でも少しは成長することができたと思っています。
そして、勘違いして欲しくないのは、「私はサッカーが大好き」だということです。楽しい時、辛い時、サボってしまった時もありましたが、目標のために励んだトレーニングや試合、格上に勝つための戦術考案、練習や試合以外のオフの部分も全て含めてサッカーが大好きで、それらの日々は私の人生の宝物です。あと、執着の念はサッカーが上達するスパイスであったのは間違いなく、上達を実感した時は嬉しさがありましたし、さらに上へ上へと思わせてくれました。
改めまして、この4年間本当に色々あった中、恵まれた同期、良くして貰った先輩・後輩、私達のために尽力して頂いた顧問の飯田先生、前顧問の誠先生、OBの方々、越山さんをはじめ、北大サッカー部に関わった全ての皆様に多大な感謝を申し上げまして、本稿の締めとさせて頂きます。本当にありがとうございました。

中野雄斗

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